第60話「十二月二十八日、同じ空の下」
「次に言われたら、俺は何と答えればいい?」
そんなこと、私に聞かないでください。
私も係長が好きなのに。
喉まで出かかった言葉を、紅茶と一緒に飲み込んだ。
玲さんの気持ちを考えればこんなこと、私に言えるはずがない。
だからといって、正しい答えなんて一つも浮かばない。
好きじゃないなら、はっきりと断ってください。
私のことも見てください。
そんなことばっかり浮かんでくる。
「……分かりません」
係長は窓の外を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「そうか」
係長はカップに残っていたコーヒーを飲み干して、椅子から立ち上がった。
青いダウンに腕を通す間も、私は何も言えずに座っていた。
係長はダウンのファスナーを首まで上げた。
「また教えてくれ」
そう言い残して、係長はこのテーブルを後にした。
カフェから出ていく青い背中を、ガラス越しに見送った。
◆
十二月二十九日、日曜日。
私はまた、美術館のカフェにいた。
昨日と同じ席に座って、同じ紅茶を頼む。
係長に言える言葉が見つかったわけじゃない。
もし係長が現れて、もう一度同じことを聞かれても、きっと私は困ってしまう。
それでも来た。
係長が座っていた椅子にはバッグを置かなかった。
今日の美術館には家族連れが多く、扉が開くたび、冷たい空気と一緒に色んな人が入ってきた。
茶色のコート。
黒いダウン。
灰色のマフラー。
青いもこもこのダウンは入ってこない。
空が赤くなるまで待ったけど、係長は来なかった。
◆
十二月三十日、月曜日。
なんだか今日は会える気がする。
カフェのカウンターに行くと、昨日と同じ店員さんが立っていた。
「今日も紅茶でよろしいですか?」
顔を覚えられてた。
「……はい」
返事をしたあとで、少し恥ずかしくなった。
でも今日もまた同じ席に座った。
隣の椅子は空けておく。
紅茶を飲んでひと息ついたとき、あの二人組の女性を思い出した。
――ここに、男の人がよく座ってませんか? スケッチしてる人
あの人たちも係長が来るかもしれないと思って、このカフェに通ってた。
今、私も同じことしてる。
入口の扉が開くたびに顔を上げて、違う人だと分かるたびに紅茶を飲んだ。
昨日よりもゆっくり飲んだのに、カップはすぐに空になった。
………。
今日も係長は来なかった。
カフェを出るときに、振り返って座っていた席を見た。
明日は実家へ帰る日だ。
もうここで待つことができないよ。
◆
十二月三十一日、大晦日。
実家の玄関を開けると、だしと醤油の匂いがした。
母は台所でおせちを作っていて、姉はリビングでみかんを食べながらテレビを見てた。
「おかえりー」
「ただいま」
コートを脱いでいる間、姉が私を見ていた。
「……なに?」
「お盆のときと顔が違うね」
「そう?」
「好きな人できたでしょ」
ハンガーに掛けようとしていたコートを落としてしまった。
姉が笑う。
「分かりやすいね」
「もうっ」
「職場の人?」
拾ったコートをハンガーに掛け直しながら、言おうかどうか迷った。
「……上司」
「何歳?」
「四十」
姉のみかんを剥いている手が止まった。
「四十?」
「うん。 でも、お父さんよりは若いよ」
私は姉からできるだけ離れたところに座った。
これ以上は余計なことを聞かれないようにしようと思ってそうしたのに、姉はわざわざテレビの音量を下げた。
「休みに入ってからも、その人とは会ってるの?」
「ん、会ってない」
「一度も?」
「一回だけ偶然会えた。 でも昨日もおとといも会えなかった」
自分から言ってしまった。
姉がゆっくりこちらを向く。
「約束してないのに、二日続けてカフェに行ったの?」
「うん」
「その人が来ると思って?」
「また来るかもって思って」
私は返事をせず、姉が剥いているみかんを見た。
「カフェで何を話したの?」
「ほかの女の人のこと」
「え?」
「その人、職場の人に何度でも告白するって言われてて……。 次に言われたら、何て答えればいいのかって、私に聞いたの」
姉の手がまた止まった。
「それをしおりに聞いたの?」
「うん」
「四十年も生きてきて、どうして相談する相手がしおりになるの?」
言われて初めて考えた。
相談できる人は他にもいるはず。
どうして私だったんだろ。
「あの人、私の気持ち知らないから」
「何て答えたの?」
「分からないって」
姉はみかんを一房、口へ入れた。
「本当は?」
「え?」
「本当は、何て答えたかったの?」
カフェで飲み込んだ言葉。
「……好きじゃないなら断ってください」
姉は笑わなかった。
「本人には?」
「言ってない」
姉は剥いたみかんを一房、私に差し出した。
「年明け、職場でまたその人と会うんでしょ?」
「会うよ」
「普通にできる?」
「普通の顔くらい作れるよ」
「今は全然できてないけどね」
姉が声を出して笑った。
◆
「あけましておめでとうございます」
零時になると、家族で新年の挨拶をした。
姉のスマートフォンには、友達から次々とメッセージが届いていた。
私のところにも大学時代の友達や会社の同期から通知が来たけど、その中に係長の名前はない。
当たり前だけど。
窓の外には、街の明かりで少し白くなった真夜中の空が広がっていた。
同じ空の下にいると思えば、カフェでは安心できたのに、今夜はそれじゃ足りない。
私は空じゃなくて、係長の顔が見たい。
あの低い声で、「あけまして、おめでとう」って言ってほしい。
それだけでいい。
◆
一月四日の夕方に、自分の部屋に戻ってきた。
荷物を置いてカーテンを開けると、灰色の空の下で、遠くの建物の窓に明かりがつき始めている。
「ただいま」
街に向かって言ってみた。
あと二日で会える。
◆
一月六日、月曜日。
いつもより早く目が覚めた。
朝食を食べて髪を整えた。
前髪を直しながら、いつもの顔になっているかを確認する。
普通の顔なら作れると、姉には言った。
けど、鏡の中の私はなんだか少しにやけてる。
戻そうとしても緩んでしまう。
いつもより早い電車に乗って、窓の外を流れていく冬の街を眺めた。
電車の窓に映った私は、やっぱりまだにやけてた。
やっと……、
九日ぶりに、あの人に会える。
◆第61話「馬平君のこと、好きでしょ」、明日20時に更新します




