第58話「十二月二十七日深夜、空を見てる人」
時計は二十三時四十分を指していた。
目を閉じて、眠ろうとした。
どれくらい経っただろうと思って、もう一度時計を見ると、二十三時五十三分。
十三分しか経っていない。
布団の中で寝返りを打つ。
………。
今日は年末の仕事納めだった。
係長と別れてから、まだ数時間しか経っていない。
それなのにもう会いたい。
明日も明後日も会社へ行かないと思ったら、胸の中にぽっかり大きな穴が開いた。
係長は今、何をしているんだろ。
お正月は実家に帰るのかな。
こっちで一人で過ごすのかな。
そんなことを思いながらベッドで横になっていると、いつの間にか夢を見ていた。
夢の中では、見たことのない石畳の街を、係長と篠原さんが並んで歩いている。
古い建物に挟まれた細い路地。
その向こうには、青い空が広がっていた。
「馬平君、あれ」
篠原さんが何かを指さした。
係長はその先を見て、笑った。
篠原さんが路地を曲がると、係長も当然のようについていく。
「係長っ」
そう言おうとしたけど声が出ない。
二人の姿が路地の向こうに消えていく。
待って……
行かないで……
足が一歩も動かなかった。
◆
十二月二十八日、日曜日。
目が覚めたとき、時計は朝の十時を指していた。
そう、あれは夢。
分かってる。
でも二人に置いていかれた感覚が、私の中には残ってた。
係長は今何をしているんだろ。
起き上がってカーテンを開けると、冬の青い空が見えた。
その瞬間、休日の昼にスケッチブックを開いていた係長の姿を思い出した。
もしかしたら……
いや、そんな都合のいいことなんてあるわけない。
でも私は急いで顔を洗って、コートを羽織った。
◆
美術館に着いて、カフェの入口扉を開けると、
カランカラン、と軽やかな音がした。
年末だからか、美術館のカフェは思っていたより空いていた。
私は入ってすぐに一階を見回した。
……係長はいなかった。
階段を上がって二階も探したけど、そこにも係長はいなかった。
一階に戻ると、
以前係長が座っていた席がまだ空いていた。
脱いだコートをその席に掛けて、
カウンターで紅茶を頼んだ。
席に座って、ゆったりとした時間を過ごしているふりをした。
カランカランと鳴るたびに、入口扉を見てしまう。
しばらくすると、
「今日も来ないね」
と、後ろのほうから声が聞こえた。
振り返ると、すぐ後ろの席に二人の女性が座っていた。
あ……
以前ここで、係長に連絡先を渡していた二人だ。
宗教の勧誘って思われた人たち。
その二人もこっちを見た。
「あの席、取られちゃったね」
一人が残念そうに言った。
係長がよくここに座ることを
この人たちも知っているんだ……。
「別にあの人の席じゃないでしょ」
「分かってるけど。 あそこでスケッチしてるのがかっこいいんじゃん」
「まだ諦めてなかったの?」
「だってこの前、連絡先は受け取ってくれたし」
「この前って、あれ六月の話だよ」
「半年くらいならこの前の話でいいじゃん」
「もうすぐ去年の話になるけどね」
係長は、あれを宗教の勧誘だと思った。
だからいつまで待ってもたぶん連絡は来ない。
しばらくして、連絡先を渡したほうの女性がバッグを持って立ち上がった。
「あの、すみません」
「はい」
「ここに男の人がよく座ってませんか? スケッチしてる人」
「……はい。 見たことはあります」
「今日、見ませんでした?」
「いえ……、まだ来てません」
しまった……。
女性の目が大きく見開いた。
「まだって、来るかもしれないんですか?」
「……わかりません」
「でもお知り合いなんですよね?」
「……はい、同じ会社の人です」
私は何を言ってるんだろ。
もう一人も席を立って、こっちに来た。
「じゃああの人、今日ここに来るか分かります?」
「分かりません」
「お休みの予定とかは?」
「聞いてないです」
答えるたびに、二人の顔が少しずつ残念そうになっていく。
「そうなんだ」
女性がバッグの中に手を入れた。
取り出したのは、小さく折りたたまれた紙。
「これ、渡してもらえませんか?」
私のほうに紙が差し出されたけど、私はそれを受け取らなかった。
「……すみません」
「はい?」
女性の手が止まった。
「どうしてですか?」
「私は、ただの部下なので。 こういうものを渡されても……」
自分で言って悲しくなった。
……ただの部下。
女性は紙を持ったまま、困った顔で私を見た。
「だったら今日来るかどうか、聞いてもらうだけでも」
「個人的な連絡先は……」
「えっ。 上司の連絡先も知らないんですか?」
「……」
「こら、言い過ぎ。 会社の人でも個人的な連絡先なんて、普通は知らないって」
もう一人が、すぐに女性の腕を引いた。
「あ、そっか。 そうだよね。 ごめんね」
「いえ」
返事をしたら、ぽつっと、テーブルに小さな丸い跡ができた。
「えっ」
女性が固まった。
「ご、ごめんなさい! 私、何かひどいこと言いました?」
「……」
慌てて目元を拭った。
「違うんです。 すみません……」
「でも、泣いてる」
「……泣いてません」
言ったあと、もう一粒、落ちた。
「もしかして、あなたもあの人のことが好きなんですか?」
女性は私の様子を見て、ふうと息をはいた。
そして差し出していた紙を、そっとバッグにしまった。
「今日はやめておきます」
「……」
「次会えたときに、自分で渡します」
「もう行こ」
もう一人に促されて、その女性は出口のほうを見た。
「でも会社が始まったら、毎日会えるんですよね」
「……」
「いいな」
そう言って、二人はカフェを出ていった。
◆
二人が帰ったあと、私は窓の外を見た。
冬の空がものすごく青かった。
この席からは空がよく見える。
そういえば、お昼休みに係長がよくいる路地も、建物の間から空が広く見えた。
あの人は、空が見える場所を選んでいるのかもしれない。
毎日見ていたのに、今まで気づいていなかった。
ブラックコーヒーばかり飲む。
急いで書いた字は、自分でも読めない。
落ち着いて書けば、きれいな字を書ける。
虫が苦手。
こんなに知っているのに、会いたいときに連絡することすらできない。
私は、ただの部下。
カランカラン
扉が鳴って、また入口を見た。
入ってきたのは幸せそうな家族連れ。
私は冷めた紅茶をちびちび飲んだ。
九日間の休みは、まだ一日目だよ。
◆第59話「検討はする」、明日20時に更新します




