第57話「十二月二十七日、仕事納め」
「おはようございますっ」
クリスマスイブの翌朝、係長がフロアに姿を現すと、
玲さんは立ち上がっていつもどおりに声をかけた。
大きすぎるくらい明るい声。
係長が玲さんの顔を見る。
いつもと違う一秒の間があって、「ああ」と答えた。
玲さんは席に座って、係長もいつもの席に向かっていった。
◆
昼休みの少し前、玲さんが資料を持って係長のところへ行った。
「係長、これ見てください」
玲さんが差し出した資料に係長が右手を伸ばしたとき、
その手の動きが一瞬、止まった。
そして玲さんの指に触れないように、資料の端っこを摘まんで受け取った。
玲さんが胸に押し付けた、あの右手で。
係長は資料に目を通す。
「ここの寸法が合っていないな」
「あ、ほんとだ。 ありがとうございます」
係長は今度も指が当たらないように、慎重に資料を返した。
玲さんは自分の席に戻った。
係長は開いたままの右手を、しばらく見ていた。
◆
十二月二十七日。
仕事納めの日。
午前中は大掃除で、私と玲さんは書庫を担当することになった。
棚から古い書類を引っ張り出して、残すものと処分するものに分けていく。
玲さんはいつもと変わらなかった。
手際よく書類を確かめて、保存年限を見ては、迷わず段ボール箱に入れていく。
イブの夜、泣きながら走っていった人とは思えない。
「玲さん」
「どしたの?」
「係長があのあとどこに行ったか聞きましたか?」
玲さんの手が止まった。
「聞けるわけないじゃん」
「ですよね」
棚の奥に挟まっていた古いファイルを、力いっぱい引き抜いたとき、
積もっていた埃が、ぶわりと舞った。
「ひゃっ」
こほこほと咳き込んでいる私を見て、玲さんがくすくす笑う。
「あのとき、どうして謝ってくれたんですか?」
「え?」
「告白する前も、したあとも。 私に、ごめんって」
玲さんは手にしていたファイルを見る。
「しおりちゃんが傷つくって分かってたからね」
玲さんは誤魔化さなかった。
「ごめんね」
玲さんはファイルの角を指でなぞった。
「でもまた告っちゃうと思うんだ」
私を傷つけると分かっていても、玲さんは自分の気持ちを伝え続ける。
「係長、玲さんのことを意識してますね」
私が言うと、玲さんは顔を上げた。
「しおりちゃんにはそう見える?」
玲さんの顔が明るくなった。
「じゃあ前進だ」
「どちらかというと避けられてるほうですけど……」
「うん、わかってる。 でも今までの私って、ただの後輩でしかなかったじゃん?」
玲さんはファイルの埃を、ぱんぱんっと払った。
「今やっと、面倒な女になれたんだ」
「それでいいんですか?」
「いいわけないじゃん。 でもただの後輩よりは、よっぽどましだよ」
笑えなかった。
係長の中で、玲さんはもう「ただの後輩」ではなくなってる。
避けるほど意識する、女の人になった。
私はまだ、触れても何も思わない後輩のまま。
「しおりちゃん」
「はい」
「私、しおりちゃんには悪いと思ってるんだ。 でもね、譲る気もないんだよ」
なんだか、玲さんらしい。
「分かってます」
私もファイルの埃をぱんぱんっと払った。
◆
十八時になると、課長が部屋から出てきてみんなの前に立った。
「今年も一年、世話になった」
フロアのあちこちから拍手が起こる。
手際よく紙コップが配られて、誰かが瓶ビールを持ってきてた。
いつの間にか設計二課の神崎係長もそこにいて、仕事納めの小さな宴会が始まった。
私は空の紙コップを持ったまま、神崎係長の横にいる係長を見た。
神崎係長が何かを言うと、
珍しく係長が声を出して笑った。
玲さんは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
しばらくは会えなくなる。
私も、あの顔をしっかりと覚えておこう。
ビールを注いで回っている人が、私の紙コップにも注いでくれたとき、
「風宮」
急に呼ばれた。
係長が横にいた。
「飲みすぎるなよ」
「まだ一杯目です」
「箱根の前科があるからな」
……っ
あの背中を思い出してしまって、慌てて紙コップに口をつけた。
そのとき――
「動くな」
「え?」
係長の手が伸びてきて、私は慌てて目を閉じた。
息が止まった。
近い。
まさか…。
なに? なに?
………。
「埃、ついてるぞ」
髪を払った指先が、耳にも触れた。
あ……
目を開けると、
係長の指に、書庫でかぶった白い埃が乗っていた。
「……すみません」
係長は指の埃を近くのゴミ箱に落とすと、神崎係長のところに戻っていった。
………。
触れられた耳が熱い。
玲さんには触れないようにしていたあの右手だ。
私は床を見つめることしかできなくなった。
◆
紙コップを持ったまま、私は席に戻った。
ノートパソコンでカレンダーを見る。
年末年始は九連休。
二十八、二十九、三十、三十一。
元日、二日、三日、四日、五日。
九日間、あの人がいない。
北海道の三日間でさえ、あんなに長かったのに。
図面の修正でも頼んでくれないかな。
「まだ仕事をしたいのか?」
声がして、顔を上げたら、
係長が私の画面をのぞき込んでた。
「そういうわけじゃありません」
「続きは来年だ」
――来年
仕事のことだとはわかってる。
保存ボタンを押してから、ノートパソコンを閉じた。
◆
私がコートを着てバッグを持つと、
帰り支度を終えた玲さんが、私のほうに歩いてきた。
ちょうど係長もコートを着てた。
三人でエレベーターホールに向かう。
誰も何も話さなかった。
イブの夜を知らなければ、いつもと変わらない三人組に見えるはず。
エレベーターが到着して、扉が開いた。
乗り込む直前、
「山本」
玲さんの肩が、わずかに動いた。
係長は続けて何かを言おうとして、そのままエレベーターに乗り込んだ。
一階に着くまで、誰も口を開かなかった。
玲さんは係長を見つめている。
エントランスを出たとき、玲さんは朝と同じ、大きすぎるくらい明るい声で笑った。
「よいお年をっ」
「ああ」
やっと声を出した。
それでもう玲さんは振り返らずに、一人で駅に向かっていった。
「風宮」
「はい」
「またな」
玲さんには何も言えなかったのに。
「……はい。 よいお年を」
私は玲さんを追いかけた。
来年になれば、また会える。
でも九日は、やっぱり長い。
◆第58話「空を見てる人」、明日20時に更新します




