第56話「十二月二十四日、行かないで」
十二月二十四日、クリスマスイブ。
「おはよ」
朝、給湯室でお湯を沸かしていると、後ろから玲さんの声が聞こえた。
いつもより明るい色のブラウスで、髪もきれいに整っている。
耳には普段見かけない、小さな金色のピアス。
口紅もいつもより少し赤くて、明るいブラウスによく合ってる。
「今日、おしゃれですね」
「そう?」
玲さんはピアスに触れながら、恥ずかしそうに笑った。
「イブくらい、ちょっと気合い入れてもいいでしょ」
「何か予定あるんですか?」
「ないんだけどね」
「あっ、そういう意味じゃないです」
慌てて否定すると、玲さんが笑ってくれた。
紙コップにお湯を注いでいると、給湯室に、ぬっと、係長が入ってきた。
「山本、今日、いつもと雰囲気違うな」
玲さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「分かります?」
「ああ」
「どこが違います?」
係長はまず、玲さんのブラウスを見た。
髪を見て、耳を見て、そして口元を見た。
視線が動くたび、横で見ている私まで、どきどきしてきた。
「全部だ」
「……全部?」
「ああ」
「……っ」
玲さんが黙った。
係長は戸棚から自分のカップを取り出すと、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。
「係長」
玲さんの小さな声。
「なんだ?」
「そういうの、どこで覚えるんですか」
「ん?」
玲さんの耳が赤くなってる。
たぶん私の顔も赤くなってる。
私は褒められていないけど。
◆
十時になって、三人で会社を出た。
四回目の打ち合わせのために、Ao no Yugasumiへ向かう。
店に入ると、カウンター席でコーヒーを飲んでいた篠原さんが、私たちに気づいて手を上げた。
玲さんを見ると、目を細めた。
「山本さん、今日かわいいね。 何か予定でも?」
「まだ何もないんです」
玲さんは答えながら、隣に立つ係長を見上げた。
「そう。 いい夜になるといいわね」
「……はい」
◆
打ち合わせは予定どおりに進んだ。
新店舗の予算とスケジュールを確認し、係長が修正した図面を篠原さんに見せる。
私は記録を取りながら、二人の話を聞いていた。
係長と篠原さんの会話は、相変わらず早かった。
篠原さんが短く希望を伝えると、係長はその場で図面に線を引く。
係長が問題を挙げれば、篠原さんは迷わずに優先順位を決めていく。
もう篠原さんの嫌なところを、探す気にもなれなかった。
打ち合わせが終わって、資料をバッグにしまっているとき、
「じゃあ、またあとでね」
係長へ向けた、何でもない声。
係長は何も言わなかった。
しまいかけていた資料の角が、バッグのファスナーに引っ掛かった。
◆
昼は三人で、駅近くのイタリアンのお店に入った。
店内にはクリスマスソングが流れていた。
注文したパスタが運ばれてくると、玲さんがごく自然に係長に尋ねた。
「係長、今日の夜って何か予定あるんですか?」
係長はパスタへフォークを入れながら答えた。
「ある」
玲さんの手が止まった。
「……仕事ですか?」
「篠原と会う」
玲さんのフォークから、パスタが落ちた。
「二人で?」
「そうだ」
仕事なの?
イブだから?
聞きたいのに、口が動かない。
玲さんは落ちたパスタをもう一度巻きながら、別のことを尋ねた。
「係長と篠原さんって、いつからのお知り合いなんですか?」
「大学の同期だ。 同じゼミだった」
この間、係長のお母さんから聞いた、大学時代の姿が目に浮かんだ。
◆
三人でお店を出ると、係長が前を歩き始めた。
玲さんがその背中を見ながら、小さく呟いた。
「篠原さん、知ってるのかな」
「何をですか」
「係長が変わった理由」
玲さんは前を向いたまま、もう一度呟いた。
「ずるいよね」
◆
午後、別の打ち合わせも終えたとき、もう街路樹のイルミネーションが灯っていた。
会社に戻ったのは、十八時の少し前。
フロアにはまだ、電話やキーボードの音がいつもどおりに鳴っている。
十八時になると、係長がノートパソコンを閉じた。
コートを着て、バッグを持つ。
定時で帰る係長なんて、ほとんど見たことがない。
――またあとでね
篠原さんの声が、聞こえた気がした。
係長がエレベーターに向かったとき、
ばっ、と
玲さんが立ち上がった。
バッグとコートを握りしめて、係長の背中を見つめている。
「玲さんっ」
玲さんは私に何か言いたそうに唇を動かしてから、
「しおりちゃん、ごめんね」
そう言ってから、係長のあとを追った。
私も立ち上がって、
バッグを持って二人を追った。
◆
建物を出たところで、玲さんが係長に追いついた。
私は少し遅れて自動ドアを出たけど、二人の間に入ることができずに、ビルの入口で足を止めた。
「係長!」
イルミネーションの下で、係長が振り返る。
「どうした」
「これから、篠原さんのところに行くんですか?」
「ああ」
「今日じゃないと駄目なんですか?」
係長の眉が少し動いた。
「約束してるからな」
「仕事ですか?」
「山本には関係ないだろ」
玲さんの顔から笑顔が消えた。
「関係あります」
「なぜだ」
「今日だけの話じゃないからです」
係長は答えない。
「私が前に言ったこと、なかったことにしてませんか?」
係長の眉がわずかに動いた。
「今日、私がどうしてこんな格好をしてきたか。 朝からずっと誰を見てたかも。 何も分からないんですか?」
「山本」
「行かないでください」
玲さんの目に涙が浮かんだ。
それでも玲さんは目を逸らさなかった。
「私、係長のことが好きです」
「前も言った。 俺も好きだ」
「またそれ。 そういう好きじゃないって、何度言えば分かるんですか」
玲さんの声が震えてる。
「いつまでそうやって逃げるんですか」
玲さんは一歩近づいて、係長の右手を掴んだ。
係長が手を引こうとする。
でも玲さんは離さなかった。
その手を、自分の胸に押し当てた。
「私は女です。 一人の女性として、馬平忠司さんのことが、大好きなんです」
係長は何も言わず、玲さんの胸に触れたまま立っている。
「分かってください」
玲さんは息を詰まらせた。
「私が、どんな気持ちでずっとそばにいたか」
係長の顔を見上げて黙っている。
けど係長は、眉間に皺を寄せて、胸に押し付けられた自分の右手を見ていた。
………。
玲さんの指から少しずつ、力が抜けていった。
「……ごめんなさい」
玲さんはそう言って、目元を押さえて駅のほうに走っていった。
◆
玲さんの姿が見えなくなっても、係長は動かなかった。
玲さんに触れていた右手を、胸の前に残したまま。
私は近づくことができなかった。
やがて係長が右手を下ろした。
ゆっくりと、私のほうに振り返る。
「風宮」
急に呼ばれて肩が震えた。
「山本は、いつからだ」
私は係長を見た。
「ずっとです」
係長の眉が寄る。
「玲さんはずっと、係長のことが好きでした」
係長は玲さんが走っていった方向を見た。
「追ってやってくれ」
玲さんを追わなければいけない。
分かってる。
それでも、係長が歩き出そうとした瞬間、別の言葉が喉元まで上がってきた。
行かないで……
篠原さんのところへは行かないで
私もあなたのことが大好きです
……口から出たのは、違う言葉。
「玲さんは……、本気です」
係長は、「ああ」と短く答えると、駅とは反対の方向に歩き出した。
まだ呼べば届く。
今走れば追いつける。
行かないで……
今度も、声にはならなかった。
係長の背中が角を曲がる。
見えなくなった瞬間、バッグの中でスマートフォンが震えた。
玲さんからだった。
『ごめん』
◆第57話「仕事納め」、明日20時に更新します




