第55話「十二月十九日、壁の向こうのただしちゃん」
十二月十九日、木曜日。
昼休みになって、フロアがいつもどおりに静かになった。
電話は鳴らず、キーボードの音もしない。
ほとんどの人が食事に出ていて、ここに残っているのは玲さんと私だけになっていた。
玲さんはサンドイッチを片手にスマホを見てる。
私がちょうどお弁当の蓋を開けたところだった。
チンっ
エレベーターの到着音。
誰か戻ってきたのかな。
何気なく顔を上げると、総務の桜井さんがこちらに歩いてきてた。
隣には、白いコートを着た小柄な女性。
白くなった髪と、まっすぐに伸びた背筋。
……どこかで見たことがあるような気がする。
桜井さんが少し困った顔をした。
「馬平係長のお母さまだそうです」
ガタっと、隣で椅子が動いて、
玲さんが立ち上がった。
私も慌ててあとに続いた。
係長のお母さんっ。
いつかの電話を思い出した。
――ただしちゃん、いる?
受話器から聞こえたあの明るい声。
改めてお母さんの顔を見た。
目元が似てる。
笑って少し下がった眉が、係長と同じだ。
お母さんはフロアを見回したあと、首を傾げた。
「ただしちゃん、いないの?」
危うく笑いそうになった。
電話で聞いたときより、ずっと破壊力がある。
「係長は今、昼食に出ています」
玲さんが答える。
「十三時には戻ると思います」
「そう。 じゃあ、少し待たせてもらおうかしら」
私が近くの椅子を引くと、
お母さんは「ありがとう」と言って腰を下ろして、
係長が普段使っている辺りを眺めた。
閉じられたノートパソコン。
いつものペン。
飲みかけのコーヒー。
その一つひとつを、珍しそうに眺めていた。
「あなた、こないだ電話に出てくれた子ね」
急に言われて驚いた。
「あ、はい。 風宮です」
「そうそう。 風宮さん」
お母さんは嬉しそうに頷いて、今度は玲さんを見た。
「じゃあ、あなたが山本さんね?」
玲さんが目を丸くした。
「どうして私の名前を知ってるんですか?」
「ただしちゃんがね、たまに話すのよ。 よく騒ぐ後輩がいるって」
「褒めてませんね」
「でも、楽しそうに話すわよ」
玲さんの口元が緩んだ。
「じゃあ、許します」
許すんだ。
お母さんはくすくす笑って、今度は私のほうを見た。
「風宮さんの話も聞いたことあるわよ」
「えっ」
思わず大きな声が出た。
「ど、どんな話ですか?」
「心配な子がいるって」
「心配……」
「ちゃんとご飯を食べてるか気になるみたい」
……恥ずかしい
「もう普通に食べてます」
なぜか言い訳をすると、お母さんが目を細めた。
「あなたも、ただしちゃんと同じことを言うのね」
「係長も、ですか?」
「自分はちゃんと食べてるって言うの」
玲さんが吹き出した。
私も笑った。
そのとき、お母さんの笑顔が、ふっと消えた。
「先週ね、珍しく電話を掛けてきたのよ」
係長が?
私と玲さんは、同時にお母さんを見た。
「体調は大丈夫かって。 ちゃんと食べてるか、困ったことはないかって。 そういうことばっかり聞くのよ」
スマホを持って、眉を寄せながら、ぶっきらぼうな声で聞いている係長。
「自分のことは話されなかったんですか?」
そう聞いたのは玲さんだった。
お母さんは小さく頷いた。
「何を聞いても、問題ない、大丈夫だって。 あの子それしか言わないの」
いつもの係長だ。
私はお箸を置いた。
「係長は、ちゃんと食べています。 忙しいときは忘れそうになりますけど」
「そういうときは、この風宮さんが食べさせてます」
玲さんが余計なことを言う。
「あ、いえ、食べさせてはいません。 声を掛けるくらいです」
「コーヒーも見張ってるよね」
「あれは……」
お母さんが笑ってくれた。
そして安心したように息を吐いた。
「いい人たちと働いてるのね」
その言葉が嬉しかった。
お母さんは、係長が使っているノートパソコンに、もう一度目を向けた。
「あの子ね。 昔は、今よりずっと人懐っこかったのよ」
「あの係長が、ですか?」
玲さんは本気で驚いてる。
「友達も多かったしね、帰省するたびに誰か連れてきてたわ。 男の子も女の子も関係なくて、家の中がいつも賑やかだった」
今の係長からは想像できない。
けど、現場に行けば職人さんが集まってくるし、お客様にもすぐに好かれる。
神崎係長と話しているときの、たまに見せる子どもみたいな顔も知ってる。
「でも、大学生のころね」
声のトーンが低くなって、私は顔を上げた。
「ある日、一人で帰ってきたの」
フロアには、エアコンの動く音が響いている。
「真っ青な顔をして、三日間、部屋から出てこなくなったの。 ご飯も食べないし、いくら呼んでも返事もしない。 何があったのか聞いても、何も言わない」
――問題ない。
――大丈夫だ。
「三日後には部屋から出てきたんだけど、そのころからかな。 自分のことを話さなくなったのは」
お母さんは膝の上で両手を重ねた。
「人が嫌いになったわけじゃないの。 今だって、人が困っていたら放っておけないでしょ、あの子」
私も玲さんも、同時に頷いた。
「頼られたら断れないし、自分のことは後回しにして、先に人の心配をする。 そういうところは、昔と全然変わってないの」
お母さんの指に力が入った。
「でも、自分のことは言わなくなっちゃった」
玲さんが俯いた。
「辛いとも、苦しいとも、助けてとも。 全部、自分の中に置いておくようになったの」
お母さんが寂しそうに笑った。
「なんだか、壁の向こうにね」
隣で玲さんが息を吸った。
でも声にはならず、膝の上に涙が落ちた。
お母さんが驚いたように玲さんを見る。
玲さんは慌てて目元を押さえた。
「すみません。 違うんです」
頬に涙が流れてる。
「係長が、そんなふうに、ずっと一人でいたと思ったら……」
お母さんは玲さんの肩に、そっと手を置いた。
「ありがとう」
玲さんは泣きながら、何度も首を振っていた。
「あなたたちがいてくれて、よかったわ」
お母さんが言った。
「ただしちゃん、あなたたちの話はするもの」
私は顔を上げた。
「壁の向こうにも、あなたたちの声は届いてるみたいだから」
すぐには息を吸えなかった。
私たちの声は届いてる。
でも係長の声は、まだ壁の向こうから聞こえてこない。
◆
時計の針が一時に近づいたころ、お母さんは立ち上がった。
「もう帰られるんですか?」
お母さんは白いコートを着て、もう一度フロアを見回した。
「元気にやってるって分かったから、それでいいわ」
エレベーターの前で振り返り、私と玲さんに手を振った。
「よろしくね」
白いコートが見えなくなった。
玲さんが鼻をすすった。
私も顔を上げられなくなってた。
◆
昼休みが終わりに近づいて、少しずつ人が戻ってきた。
電話が鳴りだして、誰かが話して、キーボードを叩く音が聞こえてきた。
いつもの会社に戻っていく。
……私たちだけは、まだ戻れずにいた。
ガラス戸が開いて、係長が戻ってきた。
片手にジャケットを持って、いつもの無表情な顔で歩いてくる。
私は慌てて目元を拭いた。
係長はノートパソコンを開きかけて、玲さんを見た。
「山本、どうした」
玲さんは顔を背けた。
「なんでもないです」
玲さんまで、壁の向こうに行ってしまった。
三日間、部屋から出てこなかったあの人が、お母さんに言ったのときっと同じ言葉。
しばらく玲さんを見ていた係長が、今度は私のほうを見た。
「風宮」
息が止まる。
「お前もか」
「……違います」
違わない。
係長は、もう一度玲さんを見る。
「本当に何でもないのか?」
「なんでもないです」
玲さんは、また同じ言葉を繰り返した。
係長は何か言いかけた。
けど結局、ノートパソコンを開いて仕事を始めた。
◆
少しして、玲さんが立ち上がった。
「すみません。 今日、早退してもいいですか」
係長が顔を上げる。
玲さんは、係長を見なかった。
「体調が悪いのか」
「ちょっと、今日は無理みたいです」
「分かった。 しっかり休め」
玲さんの口元が歪んだ。
「……はい」
玲さんは荷物を持って、そのままフロアを出ていった。
◆
十九時を過ぎたころ、フロアにはもう私と係長しか残っていなかった。
私はモニターを見ながら、同じ線を何度も引き直してしまってた。
――壁の向こうにね
顔を上げると、すぐそこで係長が仕事をしてる。
こんなに近くにいるのに。
涙が出そうになって、私は唇を噛んだ。
泣くな。
私、もう泣くな。
「風宮」
すぐ近くで声がして、肩が跳ねた。
いつの間にか係長が横に立ってた。
「なにか悩んでいるのか」
穏やかな声。
この人は、自分の苦しさを誰にも渡せないくせに、どうして私のことばっかり見つけるんだろ。
私はいつもみたいに、「大丈夫です」って答えようとした。
でも言葉が出なかった。
慌てて下を向いたけど、間に合わなかった。
涙が一滴、手の甲に落ちた。
それをきっかけに、次から次へと溢れてくる。
「……すみません」
両手で目元を押さえる。
「本当にすみません」
係長は何も言わなかった。
何も言わずに、私の横に立ってる。
私は泣いた。
係長は、私が泣き止むまで、ずっとそこを動かなかった。
◆第56話「行かないで」、明日20時に更新します




