第54話「十二月十三日、満員電車の握りこぶし」
十二月十三日。
十二月なのに、コートが邪魔になるくらい暖かい。
薄着にしてきて正解。
季節が二か月ほど戻ったような、変な天気の金曜日。
私は係長と玲さんと三人で、森中バイオを訪れていた。
コンペで審査員特別賞を受賞した係長に、ぜひ見学しに来てほしいと声が掛かったからだ。
課長に言われ、私と玲さんも同行していた。
森中バイオ製薬の本社は、駅から歩いて五分の場所にあった。
先日、挨拶に来てくれた佐伯さんに案内されて、十八階でエレベーターを降りた。
扉の横に掛けられたプレートには、「海外事業推進室」と書かれていた。
私は扉の中に入った瞬間、息をのんだ。
広いフロアには四十人ぐらいの人がいて、
壁には石畳の路地や古い教会、丘の上に広がる街並みの写真が並んでいた。
ここは日本の会社というよりは、海外に向かうための場所みたい。
その奥で、佐伯さんが足を止めた。
「こちらがインフラチームです」
デスクには建設計画の資料が広げられていた。
ヨーロッパの地図、立地比較表、建設予定地を写した何枚もの写真。
佐伯さんが、そのうちの一冊を係長に差し出した。
「正式な依頼はまだですが、馬平さんにはまずはこちらのチームと連携して、新社屋の建設に携わっていただこうと思っています」
係長は資料を受け取って、すぐにページを開いた。
「現状の第一の候補地は、ペルージャです」
――まずは
そこが引っ掛かった。
私は街の名前を知っているだけで、どんな場所なのかはほとんど知らない。
ただ、簡単には行けないほど遠くにあることだけは分かる。
係長は資料を見ながら、佐伯さんにいくつか質問をしている。
……いつもの落ち着いた顔。
本当に行ってしまうのかもしれない。
私の知らない街に。
知らない人たちのところに。
隣の玲さんが小さな声で言った。
「すごいね」
「……はい」
返事をしたつもりだったけど、聞き取れないくらい小さな声しか出なかった。
◆
森中バイオを出たころには、もう夕方になっていた。
見学の途中で森中バイオの役員や部長、海外事業担当の課長まで現れて、次々と係長に名刺を渡していった。
みんな係長と話をしたがってたし、係長が答えるたび、嬉しそうにうなずいていた。
あのプレゼンを見たあとなら、気に入られないほうがおかしい。
でも私は、おもしろくない。
出口では森中バイオのロゴが入った大きな紙袋を渡された。
ボールペン、付箋、消毒液、それから何が入っているのか分からない箱まで詰め込まれてる。
紙袋を受け取った瞬間、がくっと肩が下がった。
思ったより重い。
私たちは佐伯さんと別れて、建物の外に出た。
係長は少し前を歩いていて、玲さんはその背中を見ながら歩いている。
私は手元を見て、紙袋の持ち手を両手でしっかり持ち直した――
――その瞬間、手から重みが、ぱっと消えた。
あ……
顔を上げると、係長が紙袋を持っていた。
「大丈夫ですっ」
係長はそのまま前を向いて、ゆっくりと歩いてる。
重いか、とか、
持ってやろうか、とか、
それくらい言えばいいのに。
何も言わないまま、こういうことをやってしまう。
だから私は困るんだ。
さっきまで海外だとかペルージャだとか、遠い場所のことばかりだった。
そんなふうに持たれたら、また近くにいると思ってしまう。
前を歩く係長の背中は、どこにでもいる会社員と変わらない。
あの背中が、ペルージャの街を歩く。
……想像、したくない。
◆
帰りの電車は、ホームから見ただけで嫌になるほど混んでいた。
電車が入ってくると、係長が車内を見て眉を寄せた。
「一本待つか」
私は心の底から賛成だった。
「乗れます、乗れます!」
玲さんは、乗り気だった。
「えっ」
玲さんに背中を押され、私たちは車内に押し込まれた。
人が多すぎる。
係長は車内に背を向けて、ドアの上の枠に右手をついた。
押し寄せる人から、私と玲さんを庇うような格好になっている。
私はその正面に押し込まれ、
玲さんは私の後ろにいる。
ガガガっと鳴りながら、
ドアが閉まった。
係長のネクタイが目の前にある。
顔を上げてはいけない。
絶対に上げてはいけない。
私は係長の胸元を見ることに集中した。
目の前にいる係長の左手は、紙袋の持ち手を握ったまま、ちょうど私のお腹の前にあった。
ガタンっと電車が揺れたとき、
その握りこぶしが、ちょんと、お腹に触れた。
……っ
声にはならなかった。
また揺れる。
ちょん。
落ち着け。
これは満員電車だ。
誰も悪くない。
係長も悪くないし、私も悪くない。
ニュートンが悪い。
電車がもう一度ガタンと揺れて、今度は少し強く当たった。
森中バイオ。
海外事業。
ペルージャ。
さっきまで考えていたことが全部飛んだ。
係長が、異様に近い。
今はそれしか分からない。
後ろから玲さんの声がした。
「あ、意外と余裕あるかも」
余裕があるのは玲さんだけ。
◆
次の駅で反対側の扉が開いて、何人かが降りた。
圧が少し軽くなった。
……助かった
そう思えたのは一秒だけ。
ホームで待っていた人たちが、一斉に乗ってきた。
うそ……
係長の背中に、人の塊がぶつかった。
体が押され、私との距離が無くなった。
係長が提げていた紙袋が、私の足の間に入り込んだ。
さらに人が乗り込んで、その持ち手を握る左手まで、一緒に押し込まれてきた。
硬い握りこぶしが、足の間にめり込んだ。
……っっ
今日のスカートは薄かった。
本当に、薄かった。
布越しに、握りこぶしの硬さがはっきりと伝わってくる。
「んっ」
体が跳ねて、声が出た。
だめだめだめだめ!
私はぎゅっと目を閉じた。
考えるな。
考えたら負けだ。
電車が揺れて、握りこぶしが、ぐりっと動いた。
また揺れて、また動く。
そのたびに、体が勝手にびくっと跳ねる。
後ろから玲さんの声がした。
「……あれ?」
嫌な予感しかしない。
「しおりちゃん?」
「な、なんですか」
「なんか、体勢おかしくない?」
「お、おかしく……ないです」
「ほんとに?」
「ほんとに……です」
全然おかしくないわけない。
玲さんは黙ったけど、納得してない。
背中に刺さる視線で分かる。
私は逃げるように顔を上げた。
……っ
目の前に、喉があった。
そこに唇が触れそうになった。
こっちもだめだ!
早く着いて!
お願いだから!
そう願っている間も、電車は時間通りに次の駅に向かっていた。
◆
やっと降りる駅に着いた。
こっち側の扉が開くのと同時に、私は逃げ出すようにホームに降りた。
冷たい空気を思いっ切り吸い込んで、何度も深呼吸をした。
冷たい。
夜はちゃんと十二月だ。
さっきまでの車内がおかしかったんだ。
涼しい顔をした玲さんが降りてきて、
少し遅れて係長も降りてきた。
縦に並んでホームを歩く。
誰も何も言わない。
私は言えない。
玲さんはたぶん、何か言いたい。
係長は先頭を、紙袋を持って歩いてる。
その後ろ姿を見て気がついた。
……耳が赤い。
思わず足が止まりそうになった。
見間違いじゃない。
両方とも、赤くなってる。
私は慌てて下を見た。
前で玲さんが息を吸った。
ものすごく嫌な予感がした。
だから玲さんが口を開くよりも早く、私は言った。
「言わないでください」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしてました」
「してたけど」
「絶対に言わないでください」
玲さんが吹き出した。
私は両手で顔を覆った。
係長は振り返りもせず、紙袋を持って先頭を歩いてる。
ついさっきまで、あの人が遠くに行ってしまうことを考えていた。
でも今は、赤くなった耳しか目に入ってこない。
やっぱり十二月にしては、暖かい。
朝からずっとおかしかった。
私の顔が熱いのも、
係長の耳が赤いのも、
全部、この暖かい十二月のせい。
◆第55話「壁の向こうのただしちゃん」、明日20時に更新します




