第53話「十二月十一日、馬平君」
水曜日。
玲さんと二人で、打ち合わせ室に篠原さんが来るのを待っていた。
今日は係長も参加する。
テーブルには前回までの資料を並べておいた。
「失礼します」
扉をノックする音がして、
黒いコートを腕に掛けた篠原さんが入ってきた。
玲さんがすぐに立ち上がった。
私も慌てて立ち上がる。
「お足元が悪い中、ありがとうございます」
「こちらこそ。 いつもありがとう」
篠原さんは笑って、私たちの向かいに座った。
私はノートを開いて日付を書いた。
しばらくすると、扉の向こうから足音が聞こえてきた。
「馬平君、やっと出てきてくれたのね」
係長は篠原さんの隣に座って、テーブルの資料を手に取った。
「これまでの内容は聞いています」
いつもの仕事の声。
「敬語はいいって、いつも言ってるでしょ」
「良くない。 あなたはクライアントだ」
「ほんと、変わらないわね」
篠原さんが笑う。
私は白紙のノートを見つめながら、まだ書くことが何もないのに、ペンの先を動かした。
馬平君。
その呼び方が、ひっかかる。
篠原さんがメモ帳を開いたとき、挟まっていたペンが、ぽろりと落ちた。
ペンはテーブルを転がって、床に落ちた。
コンっと軽い音を立てて一度跳ねると、テーブルの真下に入っていった。
「あっ」
篠原さんが椅子を引いた。
私もすぐに腰を上げる。
玲さんも同じ動きをする。
三人同時に、テーブルの下に入った。
テーブルの天板は低くて、頭がゴンっとぶつかった。
私の横には玲さんがいて、前では篠原さんもペンを探してる。
玲さんと目が合った。
玲さんの視線が、私の顔からゆっくりと、下に移る。
私も玲さんの足元を見た。
……あ。
スカートの奥に、玲さんの黄色い下着が見えていた。
慌てて目を逸らした先では、篠原さんがしゃがんでいる。
そちらも見えた。
篠原さんが私のを見て、
そしてその目が大きくなった。
気づいた瞬間、三人同時に裾を押さえる。
勢いよく体を起こそうとして、三人同時に頭をぶつけた。
ゴンっと音が重なった。
その横で、遅れてテーブルの下に入ってきた係長が、床のペンを拾った。
私たち三人は、しゃがんだまま顔を見合わせる。
玲さんが笑いそうになっていた。
篠原さんも頬が赤い。
たぶん私も同じ顔。
席に座りなおすと、係長はもう資料を見ている。
篠原さんが小さな声で言った。
「……今のことは忘れましょう」
「はい」
私は強くうなずいた。
玲さんが係長を見る。
「係長、見ました?」
「何を?」
「だからテーブルの下で――」
「山本さん!」
篠原さんが慌てて止めた。
「馬平君は知らなくていいの」
篠原さんがそう言うと、玲さんが顔を上げた。
「やっぱりその呼び方、いいですね」
「そう?」
「私も今日から馬平君って呼ぼうかな」
「やめろ」
係長の即答に、玲さんは口を尖らせた。
「篠原さんはよくて、私は駄目なんですか?」
「そう呼ばれる理由がない」
「篠原さんにはあるんですか?」
係長の手が止まった。
「昔から呼ばれている」
「それ理由になってませんよ」
「始めるぞ」
係長が資料を持ち直した。
玲さんはまだ何か言いたそうだったけど、いったんは引き下がった。
篠原さんは口元を隠して笑っていた。
◆
係長がカチっとペンを鳴らして、打ち合わせが始まった。
新しい店舗の立地と予算、今後のスケジュールを確認すると、お店の入口の話に移っていった。
「入口は、今のお店と同じように、外から中が見えないほうがいいと思うの」
「閉じすぎると客が入りにくくなります」
「それも分かるんだけど、外から全部見えるバーって落ち着かないでしょ?」
係長が資料の裏に簡単なスケッチを描いた。
「こんな風に入口を少し隠します。 中を直接見せずに、明かりだけが見えるように」
「ああ、前に考えたみたいに?」
「そう」
二人の間では、もう分かったらしい。
「すみません、前に、というのは?」
篠原さんが「あっ」と声を漏らした。
「ごめんなさい。 今の店を作るときにね、馬平君が最初に考えてくれた案なの」
係長がスケッチを進めながら言う。
「暗すぎて使わなかった案だ」
「暗くしたのは馬平君でしょ」
「暗くしてほしいと言ったのは、あなたです」
「顔が見えなくなるほどとは言ってないわ」
「目が慣れれば見えるようになります」
玲さんが吹き出した。
「慣れる前に帰っちゃいますよ、それ」
篠原さんも笑った。
私は話を聞きながら、ノートに内容を書いた。
使われなかった昔の案まで、二人の中には残ってるんだ……。
◆
打ち合わせは順調に進んでいった。
途中、篠原さんが小さく何かを言ったとき、
係長の口元が緩んだ。
「風宮さん?」
ふと篠原さんに呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「今の設備費、記録できてる?」
手は動いていたらしく、ノートには設備費の数字がきちんと書かれていた。
◆
打ち合わせが終わると、篠原さんは次の日程を確認してから立ち上がった。
「今日はありがとう」
篠原さんはコートを腕に掛けて、扉の前で振り返った。
「二人とも、馬平君がいつもお世話になっています。 ありがとう」
「私がお世話しています」
玲さんがすぐに答えた。
「風宮さんも、ありがとう」
「いえ……」
「失礼します」
篠原さんは頭を下げて、打ち合わせ室を出ていった。
係長も資料を持って立ち上がる。
「お疲れ」
そう言って、篠原さんとは反対側の扉から出ていった。
会議室に残ったのは、私と玲さん。
玲さんが、ぱちんとメモ帳を閉じた。
「嫌な人だったらよかったのにね」
思わず玲さんを見た。
玲さんは扉を見たまま笑っていた。
「……はい」
私も同じことを考えていた。
しばらくして、玲さんが資料を抱えて立ち上がった。
「先に戻ってるね」
「はい。 私はもう少しメモを確認してから戻ります」
扉が閉まると、打ち合わせ室には私一人が残った。
入口の形。照明。設備費。次回の日程。
三ページ分のメモを最初から見直しても、頭に浮かぶのは、あの呼び方。
誰もいないことを確認してから、小さな声で言ってみた。
「……馬平君」
バタンっと急に扉が開いた。
「呼んだか?」
椅子から落ちそうになった。
係長が、忘れた資料を取りに戻ってきてた。
「よ、呼んでません!」
「そうか」
係長はテーブルの資料を手に取って、不思議そうな顔して出ていった。
……。
扉が閉まる。
私は両手で顔を覆った。
絶対に聞かれた。
◆第54話「満員電車の握りこぶし」、明日20時に更新します




