第51話「十一月十五日、隣にいたい」
……白い。
目を開けると、すぐ目の前が白かった。
朝日じゃない。
少し皺の入った、布。
その向こうから、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
頭の下は、柔らかくて温かい。
頬の近くに紺色の布が見えた。
寝ぼけた頭でそれが何なのか、考えた。
白い……、ワイシャツ。
紺色の、スラックス。
温かい……太もも?
……っ
一気に目が覚めた。
恐る恐る視線を上げると、そこには係長がいた。
横長のベンチに座って、壁に頭を預けて目を閉じてる。
私は、横になってた。
……係長の膝に頭を乗せて
……。
…っ
息が止まった。
体を起こさないと。
でも動いたら係長を起こしてしまう。
そもそも膝枕から起き上がるときって、どこに手をつけばいいの?
私は両手を胸の上で固めたまま、身動きが取れなくなってた。
どうしようどうしよう
そう思って頭を動かしてしまったら、係長のまぶたがゆっくり開いた。
「起きたか」
いつもと変わらない穏やかな声。
「……お、おはようございます」
「首、痛くないか」
「……首は、大丈夫です」
係長が眉を寄せた。
「どこか痛むのか?」
違う。
この状況、
もっと気にすることがある。
私はベンチに手をついて、できるだけ係長に触れないように体を起こした。
髪が頬に張りついてた。
慌てて手ぐしで整えながら、慌てて離れた。
「どうして……、こうなってるんですか」
「会場に着いてここに座ったら、風宮がすぐに寝た」
聞きたいのはその先。
「それでどうして膝枕になるんですか」
「首が痛そうだったから、支えた」
「支えたあと戻せなかったんですか?」
「動かしたら起きるだろ」
この人は、やっぱりおかしい。
でもこの顔を見たら、そんな文句はどこかに消えてった。
昨日の青白さがなくなってる。
目にも、いつもの力が戻ってる。
ソファで横になって、そのまま動かなくなるんじゃないかと本気で思った。
それが今、ちゃんと目の前にいる。
いつもの何を考えてるのか分かりにくい顔で、私を見てる。
「……顔色、戻りましたね」
係長が自分の頬に触れた。
「そうか?」
「はい」
声が震えた。
「よかったです」
そう言って、私は慌てて立ち上がった。
「顔、洗ってきます」
「そうしろ」
数歩進んだところで、背後から呼ばれた。
「風宮」
振り返る。
「寝ぐせ」
係長が自分の頭の右側を、ちょんちょんと指で触った。
私は右側を掌で触ってみた。
あ……
係長の口元が緩んだ。
◆
プレゼンの会場は、想像していたよりずっと大きかった。
高い天井に白い照明が並んでいて、その下には何百もの椅子がある。
受付の周りではスーツ姿の人たちが名刺を交換し合っていて、あちこちから聞き慣れない外国語が聞こえてきた。
徹夜明けの頭には、何もかもが眩しすぎた。
しばらくして神崎係長や玲さんたちと合流したら、
私の顔を見るなり、玲さんが吹き出した。
「しおりちゃん、寝癖っ」
「やっぱり分かりますか?」
「分かるよー。 何してたら、こんな寝癖になるの?」
係長の膝で寝てました、
なんて言えるわけがない。
「……何かあった?」
黙っていると、玲さんが急に私の顔を覗き込んだ。
「何もないです」
「その顔で?」
「ただの寝不足です」
それ以上を聞かれる前に私は目を逸らした。
会場の端では、係長が課長と最終確認をしている。
昨日と同じスーツ。
それがまるで別人に見えた。
背筋を伸ばして、真剣な顔で資料を見てる。
簡単に声をかけられないような空気を出してる。
会場にいる人たちは、何も知らない。
この人が昨夜、床に倒れたこと。
半分こしたビスケットを見て、「少ない」と文句を言ったこと。
さっきまでベンチで、新入社員を膝枕していたことも。
◆
開始時刻が近づくと、係長はステージ脇に移動した。
私たちは後方の客席に座った。
前には何百もの頭が並んでる。
昨夜、係長は、腕を伸ばせば触れられるところにいた。
さっきなんて、もっと近かった。
でも今は、声をかけても届かない。
私があの人の隣にいられたのは、たまたまなのかもしれない。
そんな考えが浮かんだとき、係長が客席に顔を向けた。
ゆっくりと視線を動かしている。
会場の雰囲気を確認しているんだと思った。
……っ
その目が、私のところで止まった。
目が合った。
何百人もいる中で、今、私と。
係長が小さく頷いた。
私もとっさに頷き返した。
◆
やがてアトリエ・フォルムの名前が呼ばれた。
係長がステージに出ていくと、
一斉に照明が向けられた。
まるで映画のワンシーン。
最初のスライドが巨大なスクリーンに映し出された。
係長は客席を見渡してから、口を開く。
「私たちが残したいのは、建物ではありません」
低い声。
マイクを通すとより一層、よく響く。
会場が静まった。
係長は会場にいる一人ひとりの目を見ながら、
言葉を選んで間を取って、
会場の空気を自分のものにしていった。
写真館。
図書室。
広場。
古い商店街に残された記憶と、これから始まる新しい時間。
昨日何度も見たスライドなのに、そこに係長の言葉が加わると、
その中で本当に人が暮らしているように見えてきた。
もう誰も音を立てない。
会場全体がプレゼンに聞き入っている。
あの人はこんな場所に立って、こんな場でさえ飲み込んでしまえる人だったんだ。
毎日隣にいたのに知らなかった。
大きすぎて、見えてなかった。
この人はもっと上に行く。
もっと大きな仕事をして、もっと有名な人になる。
はるか遠くに行ってしまう。
………。
プレゼンの最後に、二枚の完成予想図が映った。
余白のあるグレーの板と、
たくさんの写真で埋まったグレーの板。
二枚をつなぐ、小さな矢印。
私が考えたスライドだ。
係長の声が、そのスライドに意味を与えていく。
「完成した日に終わる建築ではなく、そこに暮らす人たちが、その先を作っていける場所にしたいと考えました」
会場にいる何百人もの人が、同じスライドを見ている。
私が作ったこの一枚を……
急に視界が滲んだ。
この一枚が、係長の言葉と一緒に、今ここで広がった。
係長が、「ありがとうございました」と言って締めくくる。
……。
一拍遅れて大きな拍手が巻き起こった。
その音は波のように会場を包み、多くの人が立ち上がった。
私も立ち上がって、手のひらが痛くなるほど拍手した。
係長は一礼してから顔を上げた。
客席を見渡して――
――そしてまた、私を見た。
目が合ったまま、係長の口元が緩んだ。
……勝手に涙が溢れてきた。
◆
プレゼンを終えて会場から出た係長の周りには、すぐに人が集まった。
課長が肩を叩き、役員が握手を求める。
知らない会社の人たちまで、次々に名刺を差し出していた。
当然だ。
今日の係長は、それほどまでにすごかった。
私は離れた場所からその光景を眺めていた。
「打ち上げ行くぞー!」という部長の声が聞こえる。
私はあの輪の中には入れない。
私にできることは、もうなにもない。
そう思っていると、係長が人垣の向こうから私を見た。
誰かに短く断って、輪を抜けてきた。
「風宮」
「はい」
声が掠れた。
泣いているのはもう隠せない。
「お疲れ」
「お疲れさまでした。 プレゼン、すごかったです」
「そうか」
係長は後ろに集まっている人たちを見た。
それからもう一度、私を見た。
「風宮、助かった」
昨夜、私がやったことを、係長はちゃんと見てくれてた。
「……はい」
返事をしたら、また涙が溢れた。
係長は泣き出した私を見て、少し困った顔をした。
「馬平、行くぞ!」
向こうから課長が呼んでいる。
「今行きます」
係長が課長たちのほうに歩いていった。
その背中はやっぱり大きくて、どれだけ追いかけても届かない。
私は目元を拭いながら、遠ざかっていく背中を見送った。
そのとき、
係長が急に足を止めて、何かを忘れていたように引き返してきた。
「どうしました?」
係長は答えない。
私の前に来ると、腰を屈めて顔を覗き込んできた。
……っ
少年みたいないたずらな顔。
「寝ながら泣くのは反則だぞ」
「……え」
係長は少し笑って、そのまま課長たちの方に戻っていった。
待って、
なにそれ。
私、泣いてたの?
どんな顔で?
何か言った?
まさか、言ってないよね?
顔が燃えた。
胸の中も熱かった。
あのプレゼンを見せられて、遠い人だと思った。
これからもっと大きな場所に行ってしまうかもしれない。
それでもあの人は、何百人もの中から私を見つけ出してくれた。
私も進もう。
ただ背中を追うのじゃなくて、いつか並んで同じ景色が見られるように。
この人の隣に立っても、恥ずかしくない人になる。
いつまで隣にいられるのかは分からない。
でも今は、少しでも長く、
私はこの人の、隣にいたい。
◆第四章「この人の隣にいたい」が閉幕しました。
次回からは、第五章「もう、限界」です。
◆第52話「審査員特別賞」、明日20時に更新します。




