第50話「十一月十四日深夜、……徹夜」
「全部直す」
係長がそう言ってから、もう何時間も経っていた。
会議室に残っているのは、私と係長。
スクリーンには、写真館の完成予想図が映っている。
看板が外されたあとの壁に、大きなグレーの板が貼られ、町の人たちから集めた写真が隙間なく並んでいた。
きれいに完成している。
でもこの板には、これから増える写真を貼る場所がない。
「写真を減らして余白を作る」
「この絵を作り直すんですか?」
「ああ」
写真を何枚か消せば終わるように見えたけど、そんなに簡単ではなかった。
係長は元の図面データを開き、グレーの板に並んでいる写真を減らしていった。
空いた場所のバランスを整えて、光の当たり方や壁に落ちる影まで調整している。
「これで、もう一度パソコンに画像を作ってもらう」
「どれくらいかかりますか?」
「三時間。 長ければ、もっと」
画面に表示された時間は、三時間四十二分だった。
「その間に他のスライドを直すぞ」
係長はもう別の画面を開いていた。
写真館。図書室。広場。
最後に映す、再生後の商店街。
一枚直せば、前後の説明も変わってくる。
直すところが次々と出てきた。
新しい完成予想図は、まだ十パーセントしか進んでいない。
◆
午後十時を過ぎたころ、係長は図書室のスライドを見ていた。
「ここも説明が長いです」
「どこだ」
「最初の三行、写真館のときと同じことを言っています」
係長が二枚のスライドを見比べた。
「……ほんとだな」
「昨日も同じ会話をしました」
「そうだったか……」
「それも覚えてないんですか?」
返事がなかった。
係長は真っ青な顔をして、目元を指で押さえていた。
「少し……、水を飲んでくる」
椅子を引いて立ち上がった直後、
係長の体が大きく揺れた。
「係長!」
支えようと、咄嗟に腕をつかんだ。
でも体勢を崩した男の人を支えるのは、私一人では無理だった。
係長の重さに引っ張られて、私の体勢も崩れていった。
「きゃっ」
次の瞬間、大きな音を立てて、二人とも、床に倒れた。
「うっ」
「……っ」
………。
痛くない。
衝撃は来なかった。
係長が下になってくれていた。
私は、係長の上にかぶさっていた。
顔を上げると、すぐそこには係長の顔。
私の胸は係長の胸に乗っていて、
私の背中には係長の腕が回っている。
そして――
――係長の膝が、私のスカートの中、太ももの付け根に当たっていた。
……っ
慌てて身体を起こそうとして、
ぐにゅり、と
余計に膝がめり込んだ。
変な声が出そうになって、唇を噛んだ。
係長も、自分の膝がどこにあるのか気づいたらしい。
「悪いっ」
係長はすぐに膝をどけようとした。
でも私が上に乗ったままで、動かせない。
スカートの中で、また微妙に膝が動いた。
「んふっ」
「か、風宮。 体、起こせるか」
「い、今、起きます」
腕に力を入れた。
でも焦れば焦るほど、体がうまく動かない。
膝の熱さが伝わってくる。
もう顔が爆発しそうだった。
ようやく係長の胸から離れて立ち上がった。
「怪我してないか?」
またこの人はこんなことを言う。
「わ、私は大丈夫です。 係長は?」
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです」
「お前が下になるよりずっといい」
この人は、どうしてこんな場面で、こんな顔で言えるんだろ。
係長が上半身を起こした。
まだ、身体がわずかに揺れている。
「まだ立たないでください」
私は係長の腕をつかんだまま、立たせなかった。
さっきまで当たっていた膝の感触が、まだ私の内側に残ってる。
でも今はそれどころじゃない。
それどころじゃないのに、消えてくれない。
◆
係長を会議室の端にあるソファに座らせて、水を渡した。
「最後に食べたの、いつですか?」
「昼、だな」
「何を食べました?」
食べたものを思い出すのに、時間がかかっている。
「コーヒーだ」
「食べ物を聞いてます」
「……朝にパンを食べた」
私は鞄から、小腹が空いたときのために入れていたビスケットを取り出した。
「食べてください」
「風宮のだろ」
「もう一つあります」
嘘。
「お前は食べたのか」
「食べました」
これも嘘。
係長が私の目を見た。
「半分、もらう」
ばれてた。
私は袋を開けて、ビスケットを半分、係長の手に乗せた。
「少ないな」
「文句を言うなら返してください」
「いやだ。 食う」
係長は、おとなしくビスケットを口に入れた。
少し休んでも顔色は戻らなかった。
「もう係長が操作するのは無理です」
「まだ直すところがある」
「私がやります」
「お前も疲れてるだろ」
「係長が言ってください。 私が直します」
係長は首を横に振った。
「無理だ。 量が多すぎる」
「もう倒れそうな係長より、まだ元気な私が動いたほうが早いです」
「俺は倒れない」
「さっき、私と一緒に倒れました」
「……だったな」
思い出さないでほしい。
私まで思い出してしまう。
「直す場所を言ってください。 分からないところは聞きます」
係長は、しばらく私を見ていた。
それから目を閉じて、小さく息を吐いた。
「……頼む」
……っ
こんな状況なのに、嬉しかった。
◆
私はノートパソコンの前に座って、係長はソファに横になった。
新しい完成予想図ができるまでの間、ほかのスライドを直していく。
係長が指示を出して、私が直す。
午前一時を過ぎたころ、ようやく画像ができあがった。
グレーの板に貼られた写真が減って、右側に大きな余白ができている。
「できました」
係長が身体を起こして画面を見た。
「暗いな」
「……暗いですね」
壁に当たる光が弱くなってて、この一枚だけ夜の写真のように見える。
「もう一度直すぞ」
「また何時間もかかりますよ」
「このままでは使えない」
もう一度、光の当たり具合を調整してパソコンを動かすと、画面の数字が、またゼロパーセントに戻った。
待っている間に、私は最初の完成予想図を開いた。
グレーの板いっぱいに写真が貼られている。
「係長。 こっちも残していいですか?」
「写真で埋まってる方か」
「はい。 余白のある画像と並べたら、写真が増えていくことが一目で分かると思います」
振り返ると、係長は目を閉じていた。
「……それでいこう」
古い画像が、失敗ではなくなった。
写真が増えたあとの未来として、スライドの中に残った。
◆
窓の外が白み始めたころ、二度目の完成予想図ができあがった。
今度は明るくなっている。
余白のある板と、写真で埋まった板を並べて、その間に小さな矢印を置いた。
言葉で説明しなくても、町の記憶が増えていくことが分かる。
「係長、できました」
係長は最初から確認して、最後のスライドを見て、頷いた。
「よし、これでいい。 本当に助かった……」
「……はい」
嬉しかった。
古い画像を未来として残すことを考えて、新しい一枚を作ったのは、私。
でも、係長が倒れたから、たまたま私が任されただけ。
ここにいたのが玲さんでも、設計一課の別の人でも、きっと同じことができたと思う。
――いるだけでいいんだよ
玲さんはそう言った。
でも私は、この人の近くにいたいんじゃない。
隣に立ちたい。
役に立ちたい。
………。
窓の外はもう朝になってた。
コンペの本番まで、あと八時間。
◆第51話「隣にいたい」、明日20時に更新します




