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第47話「十一月一日、いるだけでいい」


十一月一日、金曜日。


その日の午前中に、玲さんと私は課長に呼ばれた。


 「馬平係長はコンペの準備で手が離せない。 今日のAo no Yugasumiの打ち合わせは二人で行ってきてくれ」


 「今日の、ですか?」


玲さんが確認すると、課長は頷いた。


 「十七時からだ。 申し訳ないが、戻りも遅くなる」


私たちは揃って「はい」と答えた。


係長はモニターに向かい、ときどき手元の紙に何かを書き込んでは、また画面に視線を戻している。


ここ数週間、毎日のように見てきた光景。

昼間はいつもの係長。


けれど定時を過ぎてコンペのことを考え始めると、あの人の顔は変わっていく。


玲さんもそれを知ってる。


◆


十七時になる少し前、私たちはAo no Yugasumiに到着した。


店はすでに開いていた。

扉を開けると、篠原美咲さんがカウンターの中にいた。


 「まだ誰も来てないから、今のうちに始めましょうか」


 「よろしくお願いします」


篠原さんは以前と同じ、自然な笑顔で私たちを迎えてくれた。

私たちは奥のテーブル席に案内されて、持ってきた資料を広げた。


予算、オープンの時期、設計と工事のスケジュール。


玲さんが中心になって話を進めて、私はメモを取りながら、必要なところで説明を加えた。


篠原さんは仕事ができる人だった。

理解も決断も早い。

迷っていることともう決めていることを混同しない。

だから話が進みやすい。


私もちゃんと仕事をしていた。

けれど、資料にある篠原美咲という名前を見るたび、引き出しの中にある白い封筒が浮かんできた。


封を切られないまま眠っている手紙と、

その差出人。


一時間ほど経ったころ、篠原さんが書類から顔を上げた。


 「そういえば」


玲さんが顔を上げて、私もペンを止めた。


篠原さんが何気なく尋ねた。


 「馬平君、元気?」


息が止まった。


馬平君。

まるで昨日も会ったかのような、慣れた言い方。


 「元気ですよ」


玲さんが答えた。


 「最近、ちょっと忙しそうですけど」


 「そうなんだ」


篠原さんは小さく頷くと、懐かしそうに笑った。


 「ちゃんとご飯食べてる?」


私は思わず顔を上げた。

お母さんが持ってきた弁当が頭に浮かんだ。


 「あの人、忙しくなるとすぐに食べなくなるから」


私は何も言えなかった。


 「ごめんなさい。続けましょうか」


篠原さんは、もう書類に視線を戻していた。


玲さんが設計の日程について話し始めて、私は続きを書こうとした。

さっきまで普通に動いていたペンが、なかなか次の行に進まなくなってた。


◆


十八時を過ぎると、少しずつお客さんが入り始めた。


扉が開くと外の音が入ってきて、グラスの触れ合う音や抑えた話し声が聞こえ始めた。

私たちは奥のテーブルで打ち合わせを続けていた。


十八時半を過ぎたころ、篠原さんが資料を閉じた。


 「少し休憩しましょう。 二人とも、夕飯まだでしょ?」


 「あ……、はい」


篠原さんはカウンターに向かうと、しばらくして、サンドイッチと温かいスープを運んできてくれた。


 「簡単なものしか出せなくて悪いんだけど」


 「いいんですか?」


 「こんな時間まで付き合わせてるんだから。 食べて?」


スープから湯気が立っていた。


篠原さんは途中で客に呼ばれると、「少し待ってて」と言い残して、カウンターに戻っていった。

係長の食事を心配した人に、私たちが夕食を出してもらってる。


◆


打ち合わせが終わったのは、ちょうど二十時ごろだった。


資料をまとめて立ち上がると、篠原さんがカウンターの中から声をかけた。


 「遅くまでありがとう。 馬平君にもよろしくね」


 「はい」


答えたのは玲さん。

私は少し遅れて頭を下げた。


店を出ると、外の冷たい風が頬に当たった。


私と玲さんは、並んで会社に向かってた。


 「篠原さん、やっぱり素敵な人だったねー」


玲さんが言った。


 「……そうですね」


 「仕事できる感じするし。 係長としたの、楽しかったんだろうね」


私は返事をしなかった。

さっきの声がまだ耳に残ってる。


  ――馬平君、元気?


あまりにも自然なあの呼び方。


 「しおりちゃん?」


玲さんに呼ばれて顔を上げた。


 「しおりちゃん、最近ずっと残ってるよね」


 「……はい」


 「係長のこと、心配だから?」


少し考えた。


 「……はい」


私はそれしか言えない。


玲さんは、前を向いたまま小さく笑った。


 「私も心配なんだけどさ、何もできないんだよね」


 「玲さんが?」


 「うん。 コーヒーとか持っていっても、係長、たぶん気をつかうでしょ」


風が吹いて、玲さんの明るい髪が揺れた。


 「私が持ってくのは、なんか違う気がして」


玲さんはまた少し笑った。


 「持っていきたいんだけどね」


どう答えていいのか分からない。

玲さんは前を向いたまま歩いてる。


 「だからさ」


少し間を置いてから、玲さんが言った。


 「しおりちゃんがいてくれて、本当によかったと思ってる」


 「私、何もしてないです。 コーヒーをいれてるだけで」


 「それでいいんだよ」


私は黙った。


 「しおりちゃんは、いるだけでいいんだよ」


玲さんが笑った。


 「……ありがとうございます」


 「うん」


そのあと玲さんは、来週の設計の話をした。

私もそれに答えた。


会社に着くまで、さっきの話には戻らなかった。


◆


オフィスに戻ったときには、もう二十一時を過ぎていた。


全体の照明は落ちているけど、係長のいる一角はまだ明るい。


私たちが戻ったことに気づいた係長が、顔を上げた。


 「お疲れ」


 「ただいま戻りました」


係長は私を見た。


 「何か食ったか」


 「はい、食べました」


答えてから、私は玲さんを見た。

玲さんも係長を見ていた。


 「私には聞いてくれないんですか?」


 「山本は自分で食えるだろ」


 「しおりちゃんも自分で食べれます」


係長が、もう一度私を見た。


 「そうなのか」


 「食べれます」


 「それならいい」


 「ほんと、しおりちゃんには甘すぎます」


そう言って玲さんが私を見る。

笑いそうなのを我慢してた。


◆


打ち合わせの資料を棚に戻すと、玲さんは先に帰っていった。


私は自分の席に荷物を置きながら、昨夜のことを思い出してた。


  ――見えなくなっていたものに、改めて気づかせてもらうこと


私は、そんなことを言った。

自分でも何を言っているのか分からなかったのに、係長はそのあと急に紙に書き始めた。


  もし私の言葉が、何かのきっかけになったのだとしたら……


そこまで考えて、やめた。

そんな都合のいい話があるわけない。


私はまだ、係長が抱えているものを何も知らないんだから。


そのとき、係長の手が止まって、下を見た。


引き出しがある。

その中には未開封の白い封筒が入ってる。

差出人は、篠原美咲。


係長は引き出しから目を上げると、私を見た。


 「風宮」


 「はい」


 「打ち合わせ、どうだった」


 ……篠原さんが係長のことを聞いていました

 ……係長が、ちゃんとご飯を食べているか、心配していました


 「順調でした。 予定どおりに進められると思います」


 「そうか。 お疲れ」


係長はモニターに目を戻した。


私は何も言えないまま、その横顔を見ていた。

言えなかった。



◆第48話「あと二日」、明日20時に更新します

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