第46話「十月三十日、記憶と再生」
十月三十日、水曜日。
「記憶と再生」。
昼休み、私はコンペのテーマをノートに書いて、その下に大きなクエスチョンマークを描いてみた。
「記憶」は分かる。
「再生」も、それだけなら分かる。
でも二つが並ぶと分からない。
試しにその下に、「古い商店街」って書いてみた。
閉まっているシャッターを開ければ「再生」?
古くなった店を建て替えたら「再生」?
それは「再生」っていうより、再現っていうのかな。
悩んだ末に、私はノートの隅に、小さく書いた。
――係長、よくこんなの何週間も考えられるね
書いてから失礼な気がして、二本線を引いた。
でも、読める。
係長に見つからないように、ノートを閉じた。
◆
その日の係長は、朝から難しい顔をしていた。
普段なら、図面に赤ペンを入れる手はほとんど止まらない。
誰かに質問されれば即座に答える。
コンペに向けた顔になるのは、みんなが帰り始めてからのはず。
でも今日は、朝からペンが止まってる。
私は自分のモニターを見た。
そして係長を見て、またモニターを見た。
何か言ったほうがいいのかな。
大丈夫です、は違う。
係長なら勝てます、はもっと違う。
結局、何も言えないまま定時を過ぎた。
私は席を立ち、給湯室に向かった。
ドリッパーに湯を落とす。
昨日より急がずに、できるだけいい味になるように。
コーヒーカップを、係長のノートパソコンから少し離れたところに置いた。
係長が顔を上げて、「ああ」と言った。
今のところ私にできるのは、このコーヒーだけ。
◆
二十時を過ぎたころ、フロアには私と係長だけになっていた。
私はモニターを見ながら、仕事をしているふりをしていた。
係長のキーボードも、さっきからほとんど鳴っていない。
すると不意に、椅子を引く音がした。
顔を上げると、係長が隣の椅子の背を、私のほうに向けていた。
そのまま跨いで、椅子を逆向きにして座った。
背もたれに両腕を乗せて、その上に顎まで乗せた。
……。
授業に飽きた子どもみたい。
その体勢で、私をじっと見てるのがわかって、
私の鼓動が激しくなった。
「風宮」
「ひゃいっ」
変な声が出た。
「このテーマ、風宮ならどう考える」
私は瞬きをした。
私ならどう考えるか、と聞いた。
お昼休みに書いたノートを開こうとして、止めた。
「……分かりません」
係長は顎を乗せたまま何も言わない。
それで終わると思ったけど、係長は待っている。
私はこっそりとノートを開いた。
昼休みに書いたクエスチョンマークと、その下の文字が見えた。
係長が腕から顎を上げて、ノートをのぞこうとしたから、
私は慌ててノートを閉じた。
「見せてくれないのか」
「見せられません」
係長への失礼な一文が残ってるから。
「記憶と再生って、難しくて。 古い町を元に戻すことなのかなって考えたんですけど、それだと再生じゃなくて再現みたいだし」
「ああ」
「昔とまったく同じには、ならないですよね。 そこにいた人も、流れた時間も戻らないので」
口にしながら、やっぱり何も分かってないなと思った。
私は閉じたノートの上に両手を置いた。
「それで途中から、自分のことを考えました」
「自分?」
係長がほんの少し、顔を寄せた。
……近い。
コーヒーの香りと、係長の匂いがする。
これ以上、言うつもりはなかった。
こんな話をしたら、褒められてきたことを自慢しているように聞こえてしまう。
でも係長は待っている。
「私、昔から見た目のことばかり言われてきたんです」
係長の目が私を見てる。
「みんな、よく言ってくれてたんです。 だから嫌だと思うのは贅沢なんですけど」
中学生のころ、班でポスターを作るとき、「しおりちゃんなら、かわいく描いてくれそう」と言われた。
絵が得意だからじゃない。
高校で推薦の話が出たとき、先生は「あなたなら印象がいいから」と言った。
私が何かがんばったからでもない。
「褒められてるのに、私のことを言われてる感じがしなかったんです」
そこまで言って、私は俯いた。
面倒なことを話してしまった。
コンペの話だったのに、いつの間にか、二十二歳の女が容姿について悩んできた話に変わってる。
「……すみません。 町の話だったのに」
「続けろ。 聞いてる」
思わず顔を上げた。
係長は、すぐそばで私を見ている。
そして、その言い方は、ずるい。
係長は何も分かっていない。
分かってないからもっとずるい。
「でも、係長は違ったので」
口から出たあとで、その言葉の意味に気づいた。
「何が?」
係長が聞いた。
逃がしてくれない。
お腹の奥が熱くなった。
「……私が描いたものを、見てくれてます」
声が小さくなった。
「どうしてって聞いてくれて、私が答えるまで待ってくれます。 自分でも気づいてないものが、ちゃんと私の中にあったんだって、係長と話していると、そう思うんです」
係長は不思議そうに瞬きをした。
「それが普通だろ」
普通じゃない。
少なくとも、私にとっては全然違う。
でもそれを言ったらもう戻れない。
私はノートに視線を落とした。
「だから、再生って、元に戻すことじゃないなって。 いつの間にか見えなくなっていたものに、改めて気づかせてもらうことなのかなって」
自分でも、何を言っているのか分からなくなってきた。
「でも、町と私では全然違いますし。 やっぱり、よく分かりません」
長い沈黙があった。
やがて係長は、小さく言った。
「……だよな」
係長は立ち上がって、作業をしていた席に戻った。
私は閉じたノートを机の端に押しやった。
見られていない、はず。
気づけば顔が熱くなってた。
……係長は、私にとって、ほかの人とは全然違う
自分で思った言葉が、今になって頭の中を回ってる。
係長は、プリンターからコピー用紙を一枚引き出した。
……ずるいよ
私ばっかりこんな状態にして、自分はもう仕事に戻ってる。
ペンを取って、紙の真ん中に何かを書いた。
丸で囲んで、そこから線を延ばして、別の言葉を書き足した。
一枚目が埋まる前に二枚目を引き出して、
二枚目の途中で三枚目に何かを書いて、
また最初の紙に戻る。
係長のペンが止まらなくなった。
十分、二十分と経つうちに、白いコピー用紙が大きなテーブルに広がっていく。
二十一時を過ぎても、紙を擦る音は続いていた。
係長の顔は相変わらず難しい。
それでも朝の顔とは違ってる。
私は昼に書いたクエスチョンマークを思い出した。
記憶と再生。
結局、私には分からない。
私の話が役に立ったのかは分からない。
でも、もし少しでも係長の役に立てたのなら。
それなら嬉しい。
さらさらと、ペンが紙の上を走っている。
まだ誰も見たことのない設計が、今、静かに始まった。
私はその最初の音を、聞いていた。
◆第47話「いるだけでいい」、明日20時に更新します




