第45話「十月十八日、忠司さん」
十月十八日、金曜日。
今朝はいつもより一本早い電車に乗った。
駅に着くと、改札を出て、
会社に向かう人の流れから少し外れて、小さなカフェに立ち寄った。
店の中にはコーヒー豆の匂いが満ちていた。
棚には色の違ういろんな袋が並んでいる。
私には、何がどう違うのかはわからない。
それでも私はその棚の前に立った。
頭に浮かんでいるのは、定時を過ぎてからの、係長の机。
一つ。
二つ。
三つ。
時々、四つ。
コンペの話が始まってからは、定時を過ぎると紙コップが増えていく。
画面を見て、紙に書いて、消して、また考える。
その横にはいつもブラックコーヒーがある。
昨夜のあの電話で、お母さんと勝手に決めた。
一晩につき二杯まで。
だからその二杯目は、私がいれることにした。
棚から、「ブラックで飲むのがおすすめ」と書かれた袋を手に取った。
詳しいことはわからない。
でも係長がブラックを飲むことは知っている。
◆
今日は朝から現場の検査だった。
会社の車に乗り込んで、助手席でシートベルトを締める。
運転席の係長は、昨日より少し顔色がいい。
前を向いているその横顔を見ながら、昨夜の電話を思い出した。
――ただしちゃん
田舎から勝手に出て来て、息子に回収されたお母さん。
想像して、少し笑ってしまった。
「何だ?」
「いえ、何でもありません」
◆
工事現場での検査を終えて車に戻ったころには、十二時半を過ぎていた。
エンジンをかけた係長が、ぼそりと言った。
「弁当、あるんだが」
何を言われたのかわからなくて、私は係長のほうを見た。
係長は前を見たまま。
弁当?
ある?
弁当が、ある?
「食うか」
ようやく意味がつながった。
「ご、ご一緒してもいいですか」
「ああ」
窓の外に顔を向けた。
ガラスに映った自分の口元が緩んでいて、慌ててそこから目を逸らした。
◆
昼食をとったのは、事務所ビルの横にある、あの細い路地。
あの日、係長の胸に飛び込んでしまった、あの場所だ。
高い建物に囲まれているのに見上げると、ここだけぽっかり空が広い。
係長が紫の風呂敷を解いた。
出てきたのは、大きな弁当箱。
蓋を開けると、
卵焼き、
エビフライ、
ほうれん草のおひたし、
鮭のおにぎり、
色どりきれいに隙間なく詰められている。
どう見ても、一人分じゃない。
風呂敷の中から、お箸が二膳、出てきた。
「お母様が作ったんですか?」
「ああ」
「お箸、二膳ですね」
「そうだな」
卵焼きは少し甘くて、エビフライの衣はさくっとしていた。
鮭のおにぎりを食べると、真ん中まで具が入ってた。
係長がエビフライを一本取った。
私もエビフライを一本取った。
係長が卵焼きを一つ食べた。
私も一つ食べた。
甘くて美味しくて、もう一つ食べた。
係長が私を見た。
「すみません」
「何が」
「卵焼き、二つもいただきました」
係長が弁当箱を見る。
「まだまだある」
見れば、あと四つもあった。
お母さんは、卵を何個使ったんだろ。
「卵焼き、好きなのか」
「……はい」
私は三つ目の卵焼きは、我慢した。
係長が次の卵焼きを食べるまでは。
◆
午後、図面を確認してもらうために係長の席に向かった。
私がどう考えたか説明して、係長の赤ペンが入って、また私が説明する。
いつもの仕事。
でも頭の中には、昨日の電話が鳴っていた。
――ただしちゃん
係長じゃなく、
馬平係長でもなくて、
ただしちゃん。
「ここの寸法なんですが……」
私が図面を指さした。
係長はそこを見る。
「この寸法、忠司さんは前に、こう考えろと……」
……っ
音が消えた。
係長が私を見た。
私も係長を見た。
顔が一気に熱くなった。
………。
近くの席で、誰かがぶっと吹き出した。
「……おい」
係長の呆れた声。
「すみませんっ」
両手で顔を覆って、そのまま自分の席に急いで戻った。
お母さんの「ただしちゃん」と、仕事の「馬平係長」の間から、一番出してはいけないやつが出た。
◆
十八時になり、フロアの人がぽつぽつと帰り始めた。
係長の机を見る。
今、コーヒーの紙コップは一つ。
これなら、私の分を足しても二杯。
お母さんとの約束が守れる。
私は鞄から、朝に買っておいた袋を取り出して、給湯室に向かった。
ドリッパーに粉を入れて、ゆっくりとお湯を注ぐ。
膨らんだ粉から香りが立って、給湯室に広がった。
私でも、コーヒーならいれられる。
カップを持ってフロアに戻り、係長の手元にそっと置いた。
「よかったら飲んでください。 ブラックです」
「ああ」と言って、係長が顔を上げた。
「これで、二杯目です」
「何が?」
「いえ、こちらの話です」
係長の眉がわずかに寄った。
「かあさんと何か決めたな」
聞かれていた。
「一晩につき、二杯までです」
「勝手に…」
「お母様の許可はいただきました」
係長はしばらく私を見たあと、何も言わずモニターに目を戻した。
私は自分の席に戻る。
しばらくして、係長がコーヒーカップを持ち上げた。
湯気が揺れて、
ひとくち飲んだ。
そして静かにカップを置いた。
「風宮」
「はい」
「このコーヒー」
係長はモニターを見たまま。
「悪くない」
「……ありがとうございます」
「あと」
「はい」
係長が私を見た。
「忠司さんは、ちょっとあれだ」
顔が熱くなった。
忘れていてはくれなかった。
「……はい」
口ではそう答えた。
係長はまたモニターを見ながらキーボードを叩き始める。
私も手元のパソコンを見た。
……頭の中で呼ぶ分には、たぶん、大丈夫。
キーボードの音を聞きながら、声には出さず、もう一度、呼んでみた。
忠司さん。
◆第46話「記憶と再生」、明日20時に更新します




