第44話「十月十七日、ただしちゃん」
十月十七日、木曜日
あれから二週間が経った。
コンペのプレゼンまで、あと一か月を切っている。
十九時。
画面の時計を見て、それから係長を見る。
いつの間にか、それが習慣になってた。
十九時を過ぎると係長を見る。
二十時を過ぎても見て、帰る前にもう一度。
係長は今日もモニターに向かい、紙に何かを書いては消している。
今、机の端にはコーヒーの紙コップが二つ。
たぶんこのあと三つになる。
この二週間、ずっとそうだった。
玲さんと椎名さんが言い合った日から、
係長に「絶対に勝ってください」と言う人はいなくなった。
でも期待が消えたわけではない。
◆
電話が鳴ったのは、十九時を少し過ぎたころ。
「はい、アトリエフォルム設計一課です」
「あ、もしもし?」
明るく、柔らかい女性の声だった。
「ただしちゃん、いる?」
私は受話器を持ったまま固まった。
ただしちゃん?
この会社にそういう名前の人がいたかを考えた。
……いない。
少なくとも、設計一課にはいない。
「あの、どちら様でしょうか」
「馬平です」
女性は楽しそうに答えた。
「馬平忠司の母です」
係長のお母さんっ。
係長を見た。
難しい顔でモニターを見ている。
国際コンペを任されて、この会社の代表をする人。
あの人が、ただしちゃん?
………。
だめ。
どうしても同じ人とは思えない。
「少々お待ちください」
私はそう言って保留ボタンを押した。
保留にした。
あとは係長を呼べばいい。
なのに私はもう一度、そのボタンを押していた。
自分の耳に受話器を当ててた。
「あの……」
「あら、もう帰ってた?」
お母さんが笑う。
「ごめんなさいねぇ」
「いえ、まだこちらにおられます」
自分で何をしているのかわからない。
「あなた、綺麗な声をしてるわね」
「え?」
何を言われたのかわからない。
「聞きやすい声。 電話に出るのに向いてるわ」
初めて話す人に、初めて声を褒められた。
「ありがとうございます」
そう答えると、お母さんはまた楽しそうに笑った。
「ただしちゃん、まだ会社にいるのね」
「はい」
「ちゃんとご飯、食べてる?」
私は係長の顔を見た。
「夕食は、まだです」
「コーヒーは?」
「今、二杯目です」
答えてから、どうして私が係長の夕食とコーヒーの数を報告しているんだろうと思った。
「やっぱり」
お母さんの声が、少し低くなった。
「あの子、昔から忙しくなると、コーヒーをご飯の代わりにするのよね」
私も、そうだろうなと思ってた。
「あなた、部下のかた?」
「はい」
「今度、コーヒーだけで済ませようとしてたら止めてやってくれる?」
「はい」
考える前に答えてた。
「三杯目を飲もうとしたら、取り上げてしまってね」
「わかりました。 二杯目からにしましょうか」
「二杯までは許してあげて?」
係長のいないところで、係長のコーヒーは、一晩につき二杯までと決定した。
お母さんは少し静かになってから、
「あなた、ただしちゃんの彼女さん?」
すぐに違うと言えばいいのに、一瞬、声が出なかった。
「ち、違います。 ただの部下です」
「そうなの?」
「はい」
否定してから、少し残念な気持ちになった。
「風宮」
すぐ近くで声がして、飛び上がりそうになった。
係長が立っていた。
いつから聞いていたんだろ。
「代われ」
「はい」
私は慌てて受話器を渡した。
「かあさん」
声の低さは同じだけど、遠慮のない話し方。
「やめてくれ」
お母さんが何かを言った。
「違う。部下だ」
また何か言ってる。
「だから違うって」
係長が私を見た。
私も見てしまった。
「見るな」
「見てません」
見てた。
「コーヒーを取り上げろなんて、勝手に頼むな」
聞かれてた。
お母さんが何かを言って、係長の眉が動いた。
「え? 東京?」
私は顔を上げた。
「どうして先に言わない」
しばらく、お母さんが話している。
係長は目を閉じて、眉間を指で押さえている。
「今、どこにいる」
お母さんが何かを言った。
「わかった。 そこから動くな」
受話器を置くと、係長は自分の席に戻っていった。
コンペの資料を閉じて、ジャケットを掴む。
「お母様、東京にいらっしゃるんですか」
「らしい」
「いつからですか」
「知らん」
「迎えに行くんですか」
「行かないと、たぶん勝手に動く」
係長は鞄を持って、私を見た。
「悪い。 先にあがる。 回収してくる」
「はい。 お疲れさまです」
係長はエレベーターに向かっていった。
回収。
エレベーターの扉が閉まって、係長の姿が見えなくなった。
耳の奥には、まだお母さんの声が残っている。
――ただしちゃん
◆
フロアには、私一人になった。
係長の机には、飲み終えた紙コップが二つ、重なっている。
三つ目は増えなかった。
お母さんは動かずに待っていられるだろうか。
係長はちゃんと晩ご飯を食べるだろうか。
もしかしたら、今日も夕食の代わりにしようとコーヒーを飲んでいたことを、叱られるかもしれない。
私はなんだか安心した。
一人で戦っているように見えた人にも、仕事から引っぱり出してくれる人がいる。
職場に電話をかけて、四十歳の息子を「ただしちゃん」と呼んで、勝手に東京まで会いに来てしまう家族がいる。
私が一番近くにいなくても、今はいい。
誰かがあの人を一人にしないでいてくれるなら、それでいい。
机の端には、眉毛の太いシマエナガみたいな鳥が、知らん顔で座ってる。
私は頭をちょんと押す。
ころん。
「ただしちゃん、だって」
口にすると、またおかしくなった。
鳥が起き上がる。
その不機嫌そうな顔が、なんだか係長に似て見えた。
壁のホワイトボードには、「馬平係長」と書かれている。
私の頭の中には「ただしちゃん」がいる。
「ただしちゃん」
ころん。
この子は何も答えない。
でも今夜は、それでいい。
◆第44話「ただしちゃん」、明日20時に更新します




