第43話「十月四日、答えが出ない」
十月四日、金曜日。
係長はいつも通りに戻っていた。
私の図面に赤を入れて、質問すれば短いけど答えてくれる。
午後に出た現場では、監督さんより先に小さな食い違いを見つけて、図面を広げて説明していた。
その声も、歩く速さも、今までと何も変わらない。
オフィスに戻って、ただ一度だけ、赤ペンが図面の上で止まった。
「係長?」
私が呼ぶと、何もなかったように赤ペンを動かした。
「ここ、詳細を確認しておいてくれ」
「はい」
昨日、部長室から出てきたときの目を見ていなければ、今のは私も気づかなかったと思う。
◆
現場からオフィスに戻ったのは、十八時の少し前。
外はもう薄暗くなってて、帰り支度を始める人もいた。
係長は席に着くと、現場から持ち帰った図面を片づけて、昨日渡されたコンペの資料を開いていた。
定時になって、一人帰り、また一人が帰り始めた。
電話や話し声が減ってきて、係長のキーボードを叩く音が、はっきり聞こえるようになってきた。
十八時半ごろ、設計三課の椎名さんがやってきた。
「コンペの件、聞きましたよ」
係長がモニターから顔を上げた。
「馬平係長が我が社の代表って、さすがですね。 あのコンペ、業界でも相当注目されてるじゃないですか」
椎名さんは爽やかな笑顔でそう言った。
「馬平係長なら、まあ問題ないですよね」
係長は何も答えなかった。
「社内も勝つ前提で動いてるみたいですよ。これで落としたら、推薦した部長の立場まで悪くなりますしね」
冗談のつもりだったのか、椎名さんは大きな声で笑った。
近くに残っていた社員も、「馬平係長なら大丈夫でしょう」と会話に加わる。
「そうそう。むしろ、どんな案で勝つのかが楽しみですよ」
「プレッシャーなんて感じませんよね、馬平係長なら」
みんな係長を褒めている。
実力を認めているから言っている。
ひとつひとつが重なって、係長が負けてはいけない人にされていく。
係長は小さく息を吐いた。
「問題ない」
昨日と同じ、短い返事。
「ですよね」
椎名さんが満足そうにうなずく。
「馬平係長が負けるところなんて、誰も想像できませんからね」
椎名さんが続けたとき、ガタン、と椅子の音がした。
玲さんが立っていた。
「それ、応援じゃないですよね」
椎名さんが振り返る。
「何が?」
「勝って当然。 負けたら部長の立場がない。 係長はプレッシャーなんて感じない。 それ、逃げ道を全部塞いでるじゃないですか」
「逃げ道って。 俺は期待してるんだよ」
「期待だったら、何を言ってもいいんですか」
玲さんの声は、大きくはなかった。
でも、さっきまで聞こえていたキーボードの音が止まり、みんなの視線が集まっていた。
「結果を求められるのは、会社を背負ってるんだから、当たり前だろ」
「当たり前って言えば、人を追い込んでもいいんですか」
椎名さんの顔から笑みが消えた。
「山本さんさ、君は大きな仕事を背負ったことがないから、そんなことが言えるんだよ」
「ありませんよ」
玲さんは一歩も引かなかった。
「背負ったことがないから、背負ってる人に余計な荷物を乗せるなって言ってるんです」
「余計な荷物かどうかは、馬平係長が決めることだろ」
「係長は、重いなんて言わないじゃないですか」
「本人が問題ないって言ってるだろ」
「係長が『問題があります』って言う人に見えますか?」
椎名さんが続ける。
「馬平係長は、君が思ってるほど弱くない」
「弱いなんて言ってません」
玲さんの声が低くなった。
「強い人なら、何を言われても平気だと思ってるんですか」
「だから、それを決めるのは本人だろって!」
「本人が言わない人だから怒ってるんです!」
私は玲さんの袖を引っぱった。
「玲さん、もう……」
玲さんの手は震えていた。
「しおりちゃんだって昨日見たでしょ」
「見ましたけど……」
「だったらわかるよね」
「私に振らないでください」
思わず言うと、玲さんが口を閉じた。
今度は椎名さんが私を見た。
「風宮さんはどう思うんだよ」
どうして椎名さんまで私に振るんだ。
「君は馬平係長から直接指導を受けてるんだろ。 あの人が、この程度のプレッシャーで崩れるとでも思うのかよ」
「……思いません」
「ほら」
「でも……」
声が出た。
「係長が『問題ない』と言ったから、本当に何もないと思うのは、係長を知らないだけだと思います」
椎名さんの顔が曇った。
「じゃあ、馬平係長が負けると思ってるのか?」
「そんな話をしてるんじゃありません」
自分の声は、思っていたより大きくなってた。
「係長が勝っても負けても、係長の価値は変わりません」
「負ける前提で話すなよ」
「勝つ前提で追い込むよりずっとましです」
私は玲さんを止めに入ったはずだ。
どうして私のほうが、こんなことを言ってるの。
フロアは静まり返っていた。
「山本、風宮」
係長の声がした。
二人同時に振り返る。
「もういい」
「でも係長」
「山本」
「……はい」
「風宮も」
「はい」
「座れ」
二人で座った。
係長は椎名さんに顔を向けた。
「椎名」
「はい」
「期待してもらえるのはありがたい」
少しの間があった。
「だが、こいつらの言うことも間違っていない。 俺が勝てるとは限らない」
椎名さんは、しばらく係長を見ていた。
「……すみません。 言いすぎました」
「謝ることでもないんだがな」
係長はパソコンの画面に目を戻した。
「仕事しろ」
「はい」
「はい」
「はい」
なぜか、私と玲さんまで、もう一回返事をした。
◆
椎名さんが帰ったあとも、玲さんはキーボードを強く叩いていた。
しばらく見ていると、さっきから同じキーばかり押している。
「玲さん」
「何?」
「たぶんそれ、全部消えてます」
玲さんが画面を見た。
「あ、ほんとだ……」
バックスペースを押し続けていた。
玲さんはしばらく真っ白な画面を見つめていて、それから、ふうっと息を吐いた。
◆
十九時を過ぎたころ、玲さんはようやく鞄を持って立ち上がった。
「係長」
「なんだ」
「絶対勝ってください、とは言いません」
係長が顔を上げた。
「ちゃんと寝てください」
「ああ」
玲さんは私の肩を軽く叩いた。
「しおりちゃん、見張っといて」
「また私ですか」
「私より適任でしょ」
「どういう意味ですか」
玲さんは答えずに帰っていった。
◆
フロアには、私と係長の二人が残った。
画面では設計図面を開いている。
でも線を引こうとすると、さっき自分が言ったことを次々に思い出してしまう。
――勝つ前提で追い込むよりずっとましです
顔が熱くなった。
言いすぎた。
椎名さんは応援していただけなのに、
私はフロア中に聞こえるくらいの声で言い返してしまった。
係長にも、余計なことをしたと思われたかもしれない。
膝の上でぎゅっと握った指に力が入った。
右手が少し震えていた。
係長が席を立った。
しばらくして戻ってきたら、
私のほうに近づいてきた。
叱られる。
そう思って顔を上げると、係長は私の机に缶を置いた。
「これでも飲んどけ」
コーンポタージュ。
「……怒ってないんですか」
「何を?」
本当に何も思っていないような顔。
「私が、あんなことを言ったから」
係長は少し考えた。
「そうだな、少し言いすぎだったな」
「すみません」
係長は自分の席へ戻りかけて、足を止めた。
「でも、間違ってはいない」
私はコーンポタージュを両手で包んだ。
係長を守りたくて、思わず言い返してた。
けど結局、また私のほうが気づかわれてる。
この人は、自分が大丈夫でないときまで、私の震えている手を見つけてしまう。
一口飲んだ。
甘くて温かい。
もう一口飲んだ。
コーンが出てこない。
◆
コンペの資料に書かれているテーマ。
記憶と再生。
過去に栄え、今は失われつつある町を、どう未来へつなぐか。
その文字を読んで、それから係長を見た。
勝ってほしい。
でも、もし全部を使い切って、それでも届かなかったとしても、この人はこの人だ。
私には、コンペで勝つことよりも、この人が壊れないことのほうが大切だ。
机の端では、眉毛の太いシマエナガが、いつもの不機嫌そうな顔で座ってる。
私は指先で、ちょんと押した。
ころん。
「難しいね」
鳥は起き上がって、偉そうな眉毛をしたまま私を見た。
温かい缶を両手で包んで、係長のキーボードの音を聞いていた。
私は今夜もここにいたい。
◆第44話「ただしちゃん」、明日20時に更新します




