第42話「十月三日午後、白が見えてる」
「馬平係長、ちょっと部長室へ」
「はい」
午後四時を過ぎたころ、部長室の扉が閉まった。
私は席に戻ってノートパソコンを開いた。
さっきまで見ていた図面より先に、机の端に座っている白いものが目に入る。
シマエナガに似た、眉毛の太いガラス細工。
係長が北海道から連れて帰ってきた、私だけのお土産。
指先で頭を、ちょん、と押した。
ころん。
起き上がった顔は、相変わらず不機嫌そう。
もう一度押すと、また偉そうな眉毛で戻ってくる。
「……嬉しい」
声に出てしまって、あわてて口を押さえた。
隣を見ると、玲さんは静かにパソコンに向かっている。
聞こえていないみたい。
よかった。
私はもう一度、眉毛を指で、ちょんと押した。
◆
しばらくして、部長室の扉が開いた。
係長はいつもの速さで歩いて、いつものように自分の席に戻った。
表情も歩幅も変わらない。
ただ、椅子を引く前に、窓の外の空を見た。
それはほんの一瞬。
係長はすぐにノートパソコンを開いて、もう仕事を始めている。
「ねえ、しおりちゃん」
玲さんが顔を寄せてきた。
「係長、なんかあった?」
私だけじゃなかった。
「……あったと思います」
「だよね」
◆
それからしばらくして、課長がフロアの中央に立った。
「少しいいか」
全員が顔を上げた。
「来月開催される国際コンペに参加する。社内の設計責任者を、馬平係長が務めることになった」
説明が終わる前からフロアがざわめいた。
「すごいな」「国際コンペだって」と声が上がって、やがてそれが拍手になった。
課長が「馬平係長、頼むぞ」と言うと、係長は立ち上がり、「はい」と答えた。
その返事が、みんなには頼もしく聞こえたらしい。
拍手がもう一度、大きくなった。
みんなが見ているのは、会社の代表に選ばれた馬平係長。
玲さんと私は、部長室から出てきたあの人を見ていた。
「心配だね」
「はい」
係長はもう課長と話している。
資料を受け取って、いくつか質問をして、真剣な顔でうなずいていた。
でもさっき、私たちは見てしまった。
拍手の音が少し、煩わしい。
◆
定時を過ぎると、フロアの人は一人ずつ減っていった。
玲さんも鞄を持って、「しおりちゃんも早く帰りなよ」と声を掛けてくれた。
「もう少しだけ……」
私は仕事が残っているような顔をして答えたけれど、それは嘘。
係長がまだ残っているから、まだ帰りたくなかった。
夕方からずっと、係長は受け取った資料とパソコンのモニターを確認している。
机の端には空の紙コップが二つ。
晩ご飯は食べていない。
私は図面を開いていた。
線を一本引いては係長を見て、数字を一つ入れてはまた見た。
残業というより、見張りだ。
仕事をしすぎないか。
コーヒーを飲みすぎないか。
さっきの顔を、またしないか。
二十一時を過ぎたころ、係長が席を立った。
そして、自動販売機コーナーのほうに歩いていった。
………。
十分経っても、戻ってこない。
……。
二十分を過ぎたところで、私はノートパソコンを閉じた。
◆
自販機コーナーの奥には、小さなベンチが置いてある。
係長はそこに座っていた。
手にはブラックコーヒーの缶。
肘を膝につき、床の一点を見つめている。
いつも静かな人だけれど、いつもの静けさではない気がする。
空気が重たくて苦しい。
私は少し離れたところで立ち止まった。
帰ったほうがいい。
誰にもあんな顔を見せたくなくて、
係長はここにいるのかもしれない。
でも、帰れなかった。
いつも私が怖いとき、係長は私の目を見てくれた。
プレゼンの前も、失敗して何も考えられなくなったときも、私の目を見てくれた。
そういうときは、目を合わせてもらうだけで、不思議と息ができるようになった。
だから私も、係長の前にしゃがんで、
同じ高さで顔を見た。
近くで見ると、目の下に薄いくまがあった。
何か言わなければと思ったけど、私の持っている言葉は、どれもこの人には軽すぎる。
がんばってください。
係長なら大丈夫です。
そんなことは、きっともう、今日だけで何度も何度も言われてる。
私は黙って、係長の目を見た。
何も言えなくても、何かが伝わってくれればいいと思った。
何の言葉も持ってないけど。
それでも、この人の目を見ていたかった。
係長は床を見たまま。
自販機のモーターの音が聞こえる。
係長の手の中で、ポコっと、空き缶が小さく鳴った。
しばらくして、係長が顔を上げて、
目が合った。
さっきまで床を見つめていた目が、ようやく私を見た。
「風宮……」
「はい」
間があった。
さっきまでの重い空気が、かすかに軽くなった。
そして、
「白、見えてる」
最初、意味がわからなかった。
二秒後にわかった。
そしてすぐに、顔から火が出た。
係長の正面にスカートでしゃがんでたから、
中が、ずっと……
飛ぶように立ち上がって、
両手で押さえた。
係長は缶コーヒーを持ったまま、私を見上げてる。
私はスカートを押さえたまま、自分の席に逃げ帰った。
◆
フロアに戻って自分の席に座った。
両手で顔を覆う。
――白、見えてる
恥ずかしすぎ。
しばらくすると足音がして、係長が戻ってきた。
何も言わず席に座り、ノートパソコンを開く。
キーボードを叩き始めた横顔は、もういつもの係長に見えた。
私は指の隙間から、机の端を見た。
白くて丸い鳥が、太い眉毛で私を見てる。
白。
また思い出して、机につっぷしたくなった。
それでも、そっと顔を上げた。
係長は画面を見ている。
さっきより姿勢が、しゃんとしているような気がする。
私が何かできたのかは、わからない。
たぶん、何もできてない。
パンツを見せただけ。
でも、あんな顔をした係長を、一人にはしておけないよ。
次からは、隣に座ろう。
◆第43話「答えが出ない」、明日20時に更新します




