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第41話「十月三日、好きだろ、こういうの」


十月三日、木曜日の午後。


14:17。


パソコンの隅に表示された時刻を見て、

私はまた図面を書き始めた。


今日は係長が北海道出張から帰ってくる日。


朝礼で課長が「午後には戻る」と言っただけで、何時とは聞いていなかった。

私はお昼を過ぎてから、もう六回も時計を見ていた。


ノートパソコンのモニターには、さっきから同じ図面が開かれている。

寸法を直そうとしていたんだけど、どこが違っていたのか思い出せない。


キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、エアコンの低い音。

フロアは何も変わらず、いつもどおりの木曜日。


14:32。


エレベーターが、チン、と鳴った。


女子社員が二人、先に降りてきた。

その後ろから黒いジャケットが見えた瞬間、肩が跳ねた。

それをごまかすように、私はマウスを握り直した。


係長だ。


小さなキャリーケースを引いて、いつもより少し疲れた顔をしている。


 「お疲れさまでしたぁ」


 「北海道、どうでしたか?」


二人が左右から話しかけると、係長は「ああ」と答えた。


一人が荷物を持つと言い、いらないと断られ、

もう一人が寒かったかと聞いて、「まあ」と返された。

不愛想な対応なのに、二人は楽しそうに笑っている。



あの人は、「ああ」と「まあ」しか言っていない。

私ならその二語だけで三日ぐらいは、悩める。


係長がロッカーから戻ってきたとき、手に白い紙袋を持っていた。

それを共有スペースのテーブルに、ごとんと置いた。


 「北海道のやつです。 よかったら」


その一言で、人が集まった。

「わぁ」とか「ありがとうございます」の声が重なって、袋が開き、中のお菓子が配られていく。


係長はもう自分の席に戻ろうとしているのに、途中で誰かに呼び止められて、

また小さな輪ができた。


私はここに座ったまま。


お菓子を一つ、取りに行けばいい。

全員に向けたお土産なのだから、行ったところで誰も変に思わない。

それでも私は立てなかった。


自分の気持ちに気づいてしまってから、

係長のそばに行く、という今まで普通にできていたことが

とても難しくなってた。


 「しおりちゃん、行かないの?」


 「……あとで行きます」


玲さんは不思議そうに私を見た。


私はこの三日間、係長のことを考えないようにしていた。


考えると止まらなくなるから。

止まらなくなると、また泣いてしまいそうになるから。


でも考えてしまってた。


月曜日、会社に来れば会えると思ってた。

昨日の夜、明日だと思って、なかなか眠れなかった。


今日の朝、出勤する前に鏡を見た。

顔が普通かどうか確認した。

大丈夫、普通の顔を作れてた。


けれど今、係長はみんなの真ん中にいて、私は一人で図面を見てる。

誰かが何かを言って、係長の口元が、かすかに緩んだ。


なんだかひどく、遠く感じる。


朝はちゃんと普通の顔を作れてた。

なのに今、係長には見せられない顔してる。


◆


しばらくして、やっと係長から人が散って、玲さんが戻ってきた。

手に小さなクッキーの袋を持っていた。


 「はい。 これ、しおりちゃんにって」


 「え?」


 「係長が。 持ってってやれって」


真っ白な袋に、青で雪だるまが描かれていた。

その青い輪郭を、指でなぞった。


職場の先輩が後輩にお土産を渡す。

それ以上、何もない。


中のクッキーのざらざらが、袋を通して指に伝わってきた。

私は何度も指でなぞった。



………。



そのとき、



 「好きだろ、こういうの」



声がした。


顔を上げたら――


  ――立っていた。


いつからいたのかわからない。

右手に持っていた小さなものを私の机へ置いた。


ころり、と小さな音がした。


白くて丸くて、小さなガラス細工。

シマエナガに似てた。


でもどこか違う。

眉毛が太くて

妙に偉そうな顔してる。

不細工だ。


……。


不機嫌そうで不細工で、信じられないくらい、それがかわいい。


 「好きだろ、こういうの」


係長はもう一度言って、

自分の席に戻っていった。

ノートパソコンを開いて、もう仕事を始めてる。


私はガラス細工を見た。


クッキーはみんなと同じ。

この子は、私だけ。


北海道のお土産屋さんには、もっとまともなものがいくらでもあったはず。

でも係長は、わざわざこの変な子を手に取った。


シマエナガに似た、眉毛の太い小さな鳥。


私に持って帰ろうと思ってくれた。


篠原さんは、私の知らない係長の時間を知っている。

でも、北海道にいた係長の時間の中に、ほんの一瞬、私はいた。


私の知らない場所で、

私の知らない景色を見ているときに、

係長はこの子を見て、

私を思い出してくれた。


それがどうしようもなく嬉しかった。


ありがとうございます。

どうしてこれにしたんですか?


言いたいことはいくつもある。

でもどれか一つを口にしたら、言ってはいけないことまで一緒に出てしまいそうだった。


  ……好きです、とか。


だから私は黙ってこの子を手に取った。

手のひらにちょんと乗って、ひんやりしてる。

横から見ても眉毛は立派。


不機嫌そうな顔で、私を見てる。


係長はこれを見たとき、私はいつもこんな顔をしていると思ったんだろうか。

それなら少し腹が立つ。


電話が鳴って、誰かが出た。

玲さんがクッキーの袋を開けて、

係長のキーボードが一定の速さで鳴っている。


フロアは何事もなかったように、いつもの午後に戻っていた。


私はこの子を机の端に、そっと置いた。

仕事をするとき、ちょっと邪魔になるとこだけど、

ここなら係長の席から見える。



◆第42話「白が見えてる」、明日20時に更新します

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