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第40話「九月三十日、Ao no Yugasumi」


………。


気配がない。


九月三十日、月曜日。


エレベーターを降りたときも、ガラス戸を開けたときも、いつもの気配を感じなかった。

まだフロアには誰もいない。


あの席に、いつものあのペンがない。

ノートも、コーヒーカップも置かれていない。


朝の七時五十分。


係長はいつも、私より先に来ている。


今日も席を外しているだけかもしれない。

そう思いながら自分の席に座り、ノートパソコンを立ち上げた。

画面が明るくなって、週末に届いていたメールが何件も表示された。


一通目を開く。


………。


読んでいる途中で、顔を上げた。


まだ、いない。


◆


課長が来たのは、九時ちょうどだった。


 「ちょっといいか」


数人が顔を上げる。


 「馬平係長には、今日から三日間、北海道へ出張に行ってもらうことになった。 急な話だったから、報告が今になった」


そして、私と玲さんを順番に見た。


 「その間は山本、お前が風宮についてやってくれ」


 「はい」


玲さんが明るい声で答えた。


私はパソコンの画面を見た。


三日間。

今日も、明日も、明後日も、

いない。

会えない。


金曜日の夜、玲さんの部屋を一人で出た。

ベッドに倒れ込んで、泣いた。

玲さんの気持ちが全部わかって、やっと自分の気持ちを言葉にした。


  ――好き


それから土曜日と日曜日の二日間、ずっと抱えてた。


月曜日になれば会える。

会ったら、どんな顔をすればいいのかわからない。


でも、会える。


そう思ってすごしてた。


なのに……


 「しおりちゃん」


玲さんが隣から、ひょっこりと顔を覗かせた。


 「大丈夫だよ。 私がいるから」


きれいな笑顔。


 「ありがとうございます」


声が裏返って、玲さんが笑った。


私はもう一度パソコンを見た。

三日間くらい、何でもない。


……メールの一通目を、まだ読み終えていなかった。


◆


午前中、課長と玲さんと三人で、係長のスケジュールを確認した。


今日の午後には、新しいお客様との最初の打ち合わせが入っている。

本来、私が係長と一緒に行くはずだったやつ。


ホワイトボードの担当者欄には、


 馬平、風宮


と並んでいる。


課長が赤ペンで「馬平」というところに線を引き、その下に山本と書き足した。


 「今回は二人で行ってくれ。 わからないことがあれば持ち帰っていい」


◆


昼休みになって、玲さんと会社の近くにあるパスタのお店に入った。


玲さんはランチメニューを見ながら、いつもと変わらない顔をしている。

注文したパスタが届いて、しばらく食べたところで、玲さんがフォークを置いた。


 「あの日のこと、いい?」


私はフォークを持ったまま顔を上げた。


 「金曜の夜。 私が寝たあと、しおりちゃん、いつの間にか帰ってたよね」


 「ごめんなさい……」


 「ううん。 ありがと」


玲さんはフォークを一度回してから、テーブルに戻した。


 「それでね、しおりちゃんが帰ったあとなんだけど」


 「……はい」


鼓動が急に、激しくなった。


 「目が覚めたら、私、ベッドに寝てたの。 毛布もかかってて。 で、横を見たらね」


玲さんは少し間を空けた。


 「係長が床に座って、ベッドに顔だけ乗せて寝てたんだよ」


思わず、玲さんの顔を見た。


 「床で?」


 「うん。 ちゃんと、床」


玲さんが笑う。


 「ベッドで寝ればいいのにね。 まあ、そのベッドには私がいたんだけど」


何も言えなかった。


係長は玲さんの隣には入らなかった。

でも帰らずに朝までいた。

そうしてほしいと言ったから。


 「顔を見たらさ」


玲さんの表情が柔らかくなった。


 「もう、この人はって、思った」


玲さんは笑ってる。


 「私ね、あのとき、どれだけ期待してたと思う?」


 「……」


 「もっと言えば、もう、めちゃくちゃに抱いてほしいって思ってた」


フォークを落としそうになった。


玲さんは気にせず、お水をひとくち、口にした。


 「でも床で寝てる顔を見たら、そういう気持ちが全部どっかに行っちゃってね」


 「……」


 「かわいいんだよね、係長って」


その言葉は痛いほどわかる。

普段は何も見せないのに、たまにほんの少し崩れる。

それを見つけると、また見たくなる。


 「ごめん。しおりちゃんに言うことじゃなかったかな」


 「……いえ」


 「なんかね、しおりちゃんには話しておかなきゃって思って」


玲さんがもう一度フォークを持った。

私も冷め始めたパスタを口に運んだ。


あの夜、係長は玲さんのそばにいた。

眠っている玲さんの隣で、自分は床に座って眠った。


「玲さんを一人にしないでください」って言ったのは、私。


◆


午後、玲さんと二人で会社を出た。


歩きながら訪問先を確認する。

スマートフォンの画面に表示された店名を見た瞬間、足が止まりかけた。


 「玲さん」


 「うん?」


 「このお店、知ってます」


玲さんが私のスマートフォンを覗き込んだ。


  ――Ao no Yugasumi


 「あ。 春ごろに行った、あのバーだ」


 「……はい」


五月二十四日。

施工図を頑張ったお祝いと言って、玲さんが連れていってくれたお店。


係長のことを考えながら、一人でしてしまうという話を聞かされて、私は何も考えずに「わかります」と答えた。

そして、そのすぐ後ろに係長が座っていた。


どこまで聞かれていたのか、今もわからない。

それよりも、もう一つ、わからないことが残っている。


どうしてあの夜、係長はあの店にいたのだろう。

一人でグラスを持って、こちらに背を向けて座っていた。


私はあの背中を思い出しながら、玲さんと並んでお店に向かった。


◆


店の前に着くと、扉にはCLOSEDのプレートが下がっていた。


 「あれ?」


玲さんがスマートフォンで時間を確認する。


 「今日、ここで合ってるよね?」


 「はい。 もうすぐ約束の時間です」


玲さんがドアノブを引く。

鍵は開いていた。


◆


中は、あのときの記憶のままだった。


暗い。

暗いけど、温かい。

地下とは思えないくらい天井が高くて、空間に余白がある。

たくさん人がいても、それぞれの時間を邪魔しない。

うるさくなくて、静かすぎずに、ちょうどいい。


今日は開店前だから、音楽は流れていない。

客の話し声もグラスが触れ合う音もない。

それでも、夜に来たときと同じように、落ち着く空間。


以前ここに来たとき玲さんと二人で「すごい」と言った。

誰が設計したのか、そのときは考えもしなかった。


◆


 「いらっしゃい」


店の奥から女性の声がした。

現れたのは、背の高い女性だった。


濃いネイビーのワンピースに、肩に掛かる明るい髪。

私には三十歳くらいに見えた。


立ち姿がきれいで、歩き方にも無駄がない。

頑張ってこの場所に馴染もうとしているのではなく、この人がいるからお店のこの空気ができているようにすら見えた。


その女性は私たちの顔を見ると、一瞬、首を傾けた。


 「あら。 馬平君じゃないのね」


息が止まった。


馬平君。


あまりにも自然な呼び方。


 「馬平は急な出張になりまして、本日は私たちがお伺いしました」


玲さんがすぐに答える。


女性はわずかに残念そうに目を細めたあと、またすぐに笑顔になった。


 「そうなの。 お忙しいのに、ありがとう。 どうぞ座って」


テーブル席に案内された。


玲さんが資料を取り出した。


 「素敵なお店ですね。 以前、客として来させてもらったことがあるんです」


 「本当? ありがとう」


女性は店内を見回す。

とても嬉しそうな顔に見えた。


 「この近くで何軒かバーを経営しているの。 これからまた新しい物件もお願いしたくて、今日は来てもらったのよ」


そう言って、名刺入れを取り出した。


玲さんが先に名刺を受け取る。

私も自分の名刺を差し出して、両手で受け取った。


穏やかで、よく笑う人だった。

それなのに、どこか係長に似ている。


顔ではないし、話し方でもないと思う。


女性は私の顔を見ていた。

でも、顔立ちを確かめるような見方ではなかった。

私が何を考え、何を言おうとしているのか、黙って待っているように見えた。


係長と同じだ。


そんなことを考えながら、受け取った名刺に目を落とした。


白地に黒い文字。


会社名と、役職と、その下にある名前――



  ――篠原美咲



指が止まった。


引き出しの中にあるあの白い封筒。


四月に初めて見た名前。

お盆休みが明けた日、係長が開けることも捨てることもできずに見つめていたあの名前。


顔を上げると、篠原さんは玲さんと話していた。

さっきと同じ、穏やかな笑顔。


 「しおりちゃん?」


玲さんに呼ばれた。


 「……っ」


 「名刺」


自分の名刺をまだ持ったままだった。

慌てて篠原さんへ差し出した。


 「失礼しました、か、風宮と申します」


 「緊張しなくて大丈夫よ。 篠原です」


◆


打ち合わせが始まった。


新しい店の場所、広さ、客層、開店時期。

篠原さんは理解が早く、希望もはっきりしていた。

玲さんの質問にもすぐに答え、決められない部分は決められないと明確に言う。


仕事のできる人だ。


私もメモを取った。


サービス動線。

そう書いたのに、気づくと、その下にもう一度「サービス動線」と書いていた。

慌てて二つ目を線で消す。


 「このお店とは雰囲気を変えたいんですか?」


玲さんが尋ねた。


 「そうね。 でも、この落ち着きは残したいかな」


篠原さんが店内を見る。

つられて、私も見回した。


そのとき、ふと疑問が浮かんだ。


 「このお店は、どなたが設計されたんですか?」


聞いてはいけない気がしたけど、

それでももう聞かずにはいられなかった。


篠原さんが私を見る。

その表情が柔らかくなった。


 「馬平君よ。 二年くらい前に設計してもらったの。 それで今回もお願いしたくて」


私は店内を見た。


カウンター。

壁のタイル。

高い天井。

人の気配を邪魔しない、席と席の間の余白。


係長が作った空間だったんだ。


 「この空間、馬平っぽいと思ってたんです」


玲さんが嬉しそうに言った。

篠原さんも笑う。


 「そうね。 この空間は馬平君にしか作れないと思う。 このセンスは、あの人にしかないのよね」


懐かしそうな言い方だ。


私は膝の上で、名刺入れを握った。


この店がオープンしたあの夜、係長は一人でここに座っていた。

自分が設計した店で、グラスを持って、客の声を聞きながら、店内を見ていた。


あの人は、何を確かめに来ていたんだろ。


私は受け取った名刺を、名刺入れにしまった。


◆


打ち合わせが終わってお店を出た。


 「素敵な人だったねー」


玲さんが言う。


 「……はい」


 「仕事もできるし、雰囲気も落ち着いてるし。 私もあんな大人の女性になりたいなー」


 「……はい」


玲さんが私の顔を覗き込んだ。


 「しおりちゃん、さっきから『はい』しか言ってないよ」


 「……すみません」


 「今度は『すみません』になった」


玲さんが笑う。


夕方の街を人が行き交う。

目の前の信号が青に変わる。



 篠原美咲。


 馬平君。


 係長が設計したお店。


 引き出しの中にある、あの封筒。



篠原さんは、私の知らない係長を知っている。

いつから知っているんだろ。


私はまだ、係長のことをほとんど知らない。

それなのに好きになった。

好きになってしまったから、知らない時間まで欲しくなってる。


係長は今、北海道にいる。

三日間、ここにはいない。


会いたい。

朝からずっと会いたかった。


でも今だけは、会えなくてよかったとも思った。


好きだと気づいたばかりなのに、

もうあの人の過去にまで嫉妬している、

私のこんな顔なんて見られたくなかった。



◆第41話「好きだろ、こういうの」、明日20時に更新します

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