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第39話「九月二十七日深夜、好き」

玲さんの部屋は、かわいかった。


淡いピンクのクッションに、小さなドライフラワー。

窓際には観葉植物が三つ並んでいて、

白い棚の上にはガラスの器に入ったアクセサリーが入れてある。


明るくて、柔らかくて、どこを見ても玲さんらしい。

でも、「今日で最後にしようと思ってた」って泣いた夜、玲さんはこの部屋でどんな顔をしたんだろ。


……。


 かぽんっ


三本の缶ビールが、同時に開いた。


玲さんは最初から上機嫌だった。

係長の隣に座って、乾杯したばかりの缶をテーブルに置くと、すぐに顔を覗き込んだ。


 「係長、私のこと、少しぐらい意識してます?」


係長が苦笑いをした。


 「酔いすぎだ」


 「失礼ですねー。 まだひと口目です」


玲さんが笑うと、係長も困ったように小さく笑った。


玲さんは嬉しそうだ。

もう一度困った顔を見たくなったのか、今度は係長の肩に自分の肩を当てる。


 「係長って、ほんとはすっごく優しいですよね」


 「普通だ」


 「優しい人は、みんなそう言うんです」


 「そんなことはない」


 「私、知ってます」


係長は缶ビールを口に運んだ。

席を立たないし、玲さんの肩を振り払おうともしない。


私は二人の向かい側に座っていた。


居酒屋のときと同じ。

玲さんが隣で、私は向かい。


箱根の謎解きでも、桜井さんが隣にいて、私は見ていることしかできなかった。

自分から行かないから、私はいつも、空いているところに座ることになる。


 「係長のこと、もっと知りたいです」


玲さんの声が甘くなった。


 「休みの日って、何してるんですか?」


 「寝てる」


 「じゃあ今度、起こしに行きます」


 「ん? 来なくていい」


玲さんが楽しそうに笑った。

私も笑った。

でも膝に置いた手が、硬くなってた。


玲さんはもう係長に自分の気持ちを伝えている。


仕事の話に変えられて、ホームで泣いた。

それでも会社に戻ると「やっぱり諦めない」って笑って、今夜も「ここにいます」と言った。


何度届かなくても、玲さんは係長の見えるところに自分から立つ。

私は一度も立ってない。


◆


玲さんの頬が、どんどん赤くなってきた。

話す声も少しずつ大きくなってきて、笑ったあと、係長の肩に頭を預ける時間も長くなってる。


 「山本、水を飲め」


 「はーい」


返事は素直。

玲さんは差し出された水をひと口飲むと、また係長を見た。


 「係長」


 「何だ」


 「私のこと、見えてます?」


 「さっきも言っただろ」


 「だって、見えてる人の反応じゃないんだもん」


玲さんは不満そうに唇を尖らせて、係長の腕に、ゆっくり両手を絡ませた。


係長の手が止まる。


玲さんはその腕を抱いたまま、目を閉じかけていた。


 「係長……、好きです……」


声にはもうほとんど力が残っていなかった。


係長が何か言おうとした。


でもその前に、玲さんのまぶたが閉じた。

腕を両手で抱いたまま、体が係長のほうに傾いた。


 「おい、山本」


返事はなかった。

玲さんはそのまま眠ってしまっていた。


 「ったく……」


係長はそう言いながら、玲さんの腕を乱暴には外さなかった。

指を一本ずつほどいて、倒れないように肩を支えると、玲さんの体を抱き上げた。


さっきまであれほど係長を見ていたのに、玲さんは今、頬を赤くしたまま安心しきった顔で眠っている。


係長は玲さんをベッドに寝かせ、髪が顔にかからないように横によけてから、毛布をかけた。


◆


しばらくして、玲さんの寝息が聞こえてきた。


係長がスマートフォンを取り出した。


 「タクシーを呼ぶ。 帰るぞ」


「はい」と答えかけて、私は玲さんを見た。


玲さんは、毛布の中で小さく丸くなっていた。


このまま私は、係長と一緒に家まで帰れる。

二人でこの部屋を出て、同じエレベーターに乗って、同じタクシーに乗れる。

もしかすると、自宅の前まで送ってもらえるかもしれない。


箱根では、隣に行けないことが苦しかった。

今は係長のほうから、その隣を空けてくれてる。


私は、眠っている玲さんから目を離せなかった。


箱根のホームで泣いていた玲さん。

翌週には笑っていた玲さん。

今夜も冗談みたいに笑いながら、自分の気持ちを何度も伝えていた玲さん。


目を覚ましたとき、この部屋に誰もいなかったら、

さっきまで係長の腕を抱いていたことも、

好きですって言ったことも、

全部夢だったって思うかもしれない。


気づいたときには口が動いてた。



 「係長は、ここにいてあげてください」



 「ん?」


係長がスマートフォンから顔を上げた。



 「玲さんを一人にしないであげてください。 私は一人で帰れますから」



声は普通に出た。

でも係長の顔を見て、急に息が苦しくなった。


係長は少し考えたあと、


 「……そうか」


と、頷いた。


私はバッグを持って、玄関に向かった。

靴を履いてから、もう一度、振り返る。


ベッドには玲さんが眠っている。

そのそばに係長が立っていて、ずれた毛布を直していた。



お似合いだな、と思った。



小さな声で、


 「おやすみなさい」


と言った。

誰に向けて言ったのかはわからない。


……玄関のドアを閉めた。



 かちゃり



と、小さな音がした。


◆


廊下に出ると、そこにはもう誰もいなかった。


エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。


扉が閉じる。


鏡の中には、私一人しかいなかった。


三人で来たのに帰りは一人。

鏡に映った顔は、泣きそうだった。


私はその顔から、目を逸らした。


エレベーターは何も知らずに、ゆっくりと降りていった。


◆


一人で自分の部屋に帰って、靴を脱いだ。

電気をつけてバッグを置いたところで、もう立っていられなくなった。


ベッドに倒れ込んで、天井を見た。


玲さんの寝息も、係長の声も、もう聞こえない。


浮かんでくるのは、玲さんの顔ばかり。

何度届かなくても、好きな人を見続けていた顔。


どうしてそこまでできるのかと思ってた。

どうして諦められないのか。

傷ついたあとも、どうしてまたあの人のそばに行けるのか。


今ならわかる。


係長に少しでも笑ってもらえたら、すごく嬉しい。

名前を呼んでもらえたら、その日一日が幸せになる。


玲さんの気持ちが悲しい。

私も悲しい。


涙が耳に流れて、髪の中に消えていった。

どっちの悲しみで流れた涙なのかはわからない。


でも、


……気づけば涙が溢れてた。


玲さんの気持ちは、もう全部、わかってしまってる。


私は泣いた。

声も出さずに一人で泣いた。


もうわかってしまったんだ。

もう自分の気持ちから逃げられなかった。


両手で顔を覆う。

もう知らないふりはできない。


もうずっと前から、


  私は、係長のことが好きだった。



◆第40話「Ao no Yugasumi」、明日20時に更新します


【あとがき】

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

次の第40話からは第4章です。


第4章「試練と深化」、テーマは「この人の隣にいたい」です。

(全6章、79話)

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