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第38話「九月二十七日、ここにいます」


 「係長を食事に誘わない?」


金曜日の昼休み、玲さんはお弁当の蓋を閉めながら、まるで明日の天気でも話すような口調でそう言った。


 「え?」


 「三人で。 今晩」


私はお箸を持ったまま、玲さんの顔を見た。

三週間近く、帰りの電車の中で何度も練習をした言葉がある。


  ――食事に行きませんか


頭の中では言える。

でも、もし「どうしてだ」と聞かれたら、その瞬間に終わってしまう。

それにあの玲さんに、黙って係長を二人きりの食事に誘うことなんて、私にはできなかった。


 「係長、今晩予定ないって」


 「もう聞いたんですか?」


 「うん。さっき」


玲さんが笑う。


 「しおりちゃんも行くでしょ?」


行きたいに決まってる。

でもこれは、私が係長を誘ったんじゃない。玲さんが係長と食事をする場所に、私も連れていってもらうだけだ。


 「……行きます」


◆


仕事が終わると、三人でタクシーに乗って玲さんの選んだ居酒屋に向かった。

お店に入るとすぐに、四人掛けのテーブル席に案内された。


玲さんは迷わず係長の隣に座る。

私は向かい側の席に座った。


 「係長、何にします?」


玲さんがメニューを係長との間に広げて、体を寄せる。

係長はわずかに体を引いたけれど、玲さんは気づかないふりをした。


 「これ、おいしそうじゃないですか?」


 「好きに頼め」


 「係長が何を食べたいか聞いてるんです」


 「何でもいい」


 「そういう答えが一番困るんですけど。 うーん、じゃあこの激甘カルパッチョ!」


 「それはやめろ」


 「ほら、何でもよくないじゃないですか」


玲さんは文句を言いながら楽しそうに笑ってる。

乾杯して料理が運ばれてくると、玲さんはすぐにまた質問を始めた。


 「家でも飲むんですか?」


私が知りたかったことを、玲さんは次々と聞いていく。


 「休みの日も一人で飲むんですか?」


係長の返事はどれも短い。


 「日本酒は飲みますか?」


それでも玲さんは気にせず、次の質問をする。

私は話に入れないまま、ジョッキについた水滴を指でなぞっていた。


今日、係長を誘ったのは玲さんで、隣に座っているのも玲さん。

知りたいことを一つずつ聞き出しているのも、玲さん。


私はここに、何をしに来たんだろ。


 「しおりちゃんは?」


急に名前を呼ばれて顔を上げた。


 「え?」


 「何か頼みたいものない?」


メニューが私に向けられていた。


 「……何でもいいです」


玲さんが吹き出した。


 「二人とも同じこと言うんだから」


玲さんは笑いながら、私と係長を交互に見た。


 「やっぱり気が合うんですね」


◆


二杯目の途中で、玲さんが係長を見ながら聞いた。


 「係長って、女の人を好きになったりしないんですか?」


係長のお箸が止まった。


 「何だ、急に」


 「急じゃないですよ。 ずっと気になってました」


玲さんは笑っていた。

でもジョッキを握る指は、力が入って白くなってる。


私まで緊張してしまって、膝の上で手を握った。


 「全然そういう雰囲気ないじゃないですか。 誰かに言い寄られても気づかなそうだし」


 「そんなことはない」


 「じゃあ気づくんですか?」


 「言い寄られたことがないだけだ」


係長は枝豆の殻をお皿の端に置きながら、平然と続ける。



 「俺に興味を持つ女性なんていないだろ」



玲さんが私を見た。

私も玲さんを見た。

たぶん、同じことを考えていた。


  ――この人、本気で言ってる



 「私が箱根で言ったことは覚えてます?」



係長は少し考えた。


 「謎解きの話か?」


 「ほら、全然覚えてない」


 「覚えてる。 かき氷がマンゴー味だったってことだろ」


 「それも違います」


玲さんは笑ったけれど、私は笑えなかった。

あの日、玲さんがどんな思いで「好きです」と言ったのか、この人は何もわかってない。


 「私、係長に好きだって言いましたよね」


 「だから俺も、お前みたいな仕事の仕方は好きだと――」


 「そういうところです」


玲さんが係長の言葉を止めた。

係長はお箸を持ったまま、珍しく困った顔をしている。


 「仕事の話じゃなかったら、何の話だ」


玲さんは係長の顔の前で、軽く手を振った。


 「係長、私のこと見えてます?」


 「見えてる」


玲さんは自分を指さした。



 「係長に興味を持ってる女なら……」



そこで一度、息を吸った。



 「ここにいます!!」



係長は玲さんを見たまま、動かなくなった。

お箸でつまんでいた枝豆が、空中で止まってる。


玲さんも目を逸らさない。


数秒後、係長は枝豆をお皿に戻した。


 「またお前は。 飲みすぎだ」


 「まだ二杯目です」


 「飲みすぎだ」


 「答えになってませんけど」


係長は答えずに、枝豆を食べた。


玲さんは呆れたように笑いながら、ジョッキに口をつける。


その横顔を見て、箱根のホームでこぼれた涙を思い出した。

あの日から、玲さんは二度も自分の気持ちを届けようとしている。


私は一度も言っていない。


係長のことが好きなのかと聞かれても答えられず、

食事に誘うことさえできないまま、

玲さんが用意してくれたこの席に座っている。


黙っている私の気持ちまで、係長が見つけてくれるはずがない。


私は空になったジョッキを傾けた。

何も出てこないのに、しばらく口をつけたままでいた。


◆


三杯目を飲み終えたころには、玲さんの頬はすっかり赤くなっていた。

それでも目は、ずっと係長を追っている。



 「二次会、うちに来ません?」



思わず咳き込んだ。


玲さんの部屋。

そこに係長が行く。


 「そういうのはいい」


係長はすぐに断った。


 「もう遅い」


 「まだ九時ですよ?」


 「じゅうぶん遅い」


 「小学生の門限ですか」


 「酔っ払いに言われたくない」


 「しおりちゃんも一緒に来ます」


突然、話を振られた。


係長が私を見る。


 「しおりちゃん?」


玲さんが私を見てる。


 「……行きます」


係長がため息をついた。


 「こんな酔っ払いを一人で帰すわけにもいかないか」


◆


お会計を済ませて、三人で店を出た。


玲さんは係長の隣を歩いている。

酔って足元が危ないからって、ときどき係長の腕を掴んだ。

係長はそのたびに歩く速度を落としていた。


私は二人の後ろを歩いた。

またこの位置。


玲さんは自分で係長の隣を選んだ。

私は空いている場所に座って、空いている場所を歩いている。


 「しおりちゃん、早く」


私は小走りで追いついた。

でも玲さんと係長の間には入れずに、玲さんの隣に並んだ。


玲さんの部屋まで、あと十分ほどだという。


今夜、何が起きるかわからない。


でもひとつ、わかっていることがある。


私が何も言わないままでも、この時間は止まってくれない。


玲さんはもう動き始めてる。



ついに…

◆第39話「好き」、明日20時に更新します

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