第37話「九月九日、いい目をしている」
九月九日、月曜日。
午後の課内打ち合わせが終わって、フロアが急に静かになった。
私は次の会議で使う資料を揃えながら、図面の番号とモニターの番号とを見比べていた。
会議室の扉が開いて、設計二課の人たちが出てきた。
その中にいた神崎係長は、部下を先に帰すと、抱えていたファイルを馬平係長の前に置いた。
馬平係長がそのファイルを開くと、神崎係長も隣から覗き込んだ。
二人は同期だからだろうか、
神崎係長は、馬平係長に対して遠慮がない。
………。
しばらく図面を見ていた神崎係長が、不意に私のほうに目を向けた。
私は慌てて目を伏せた。
「それにしても、珍しいよね」
「何がだ」
「あなたが新人さんを褒めるの」
私は必死に聞いていないふりをして、
たった今確認したばかりの数字をもう一度見た。
「風宮さんのことでしょ?」
モニターのカーソルが点滅している。
「ああ」
「ずいぶん気に入ってるのね」
係長が顔を上げた。
「指導係としてな」
返事が早い。
もうちょっと考えてくれてもよかったのに。
「どこがいいの?」
神崎係長はまだ面白そうに聞いている。
係長は少し考えた。
その間、私はまた手を止めていた。
「あいつは、いい目をしている」
「へえ」
神崎係長の声に笑いが混じった。
「仕事の話?」
「ほかに何がある」
神崎係長が肩をすくめた。
「相変わらずね」
神崎係長がファイルを持って設計二課へ戻っていった。
馬平係長もすぐに元々見ていた資料を開いていた。
二人にとっては、もう終わった会話。
私はまだモニターの同じところを見続けていた。
――いい目をしている
もう一度、頭の中で言ってもらう。
綺麗だね。可愛いね。モデルみたいだね。
そんな言葉なら、子どものころから何度も言われてきた。
嬉しくなかったわけじゃない。
でもそれは私ががんばって手に入れたものじゃない。
係長が言ってくれたのはそこじゃない。
私が見てきたものを、係長も一緒に見ていてくれた。
顔を上げれば係長がいる。
でも今は見れなかった。
見てしまったら、たぶんこの緩んだ顔を隠せない。
私は資料の端を揃え直した。
一度揃えて、それでも足りずにもう一度揃えた。
――指導係としてな
こっちの言葉も浮かんできた。
嬉しかったんだけど、こっちはちょっと引っ掛かった。
設計士として見てもらえている。
いつから私は、それだけじゃ足りなくなっていたんだろ。
◆
夕方、コピー用紙を取りに設計二課のフロアに行くと、廊下の窓際に神崎係長がいた。
紙コップのコーヒーを飲みながら外を眺めていた。
「あ、風宮さん。 もう仕事には慣れた?」
「はい。 まだ係長に助けてもらってばかりですけど」
「馬平君が聞いたら、助けてないって言いそうね」
神崎係長が笑った。
本当にそう言いそうだと私も思った。
少し話して別れようとした。
けれど今ここで聞かなければ、もう聞けないような気がした。
「神崎係長」
「どうしたの?」
「その……、馬平係長って……、つ、付き合っている人って、いるんですか?」
言ってしまった。
抱えていたコピー用紙の角が、腕に食い込んだ。
神崎係長は紙コップを口元に運びかけたまま、私を見た。
「いるって言ったら、風宮さんは困る?」
「えっ」
困ります、なんて言えるはずがない。
神崎係長はしばらく私を見てから、紙コップを下ろした。
「ごめん。 意地悪だったね」
「いえ……」
「それは、私が答えていいことじゃないから」
「……そうですよね」
恥ずかしくなって、コピー用紙を抱え直した。
「ただね」
神崎係長がひと息ついた。
「あの人は、損な人よ」
「損、ですか?」
「人のことはよく見てるのに、自分のことは見せないでしょ」
神崎係長はそう言って、自分の席に戻っていった。
……損な人
どういう意味だろ。
◆
帰りの電車で、ドア脇の手すりに掴まりながら、窓に映る自分を見ていた。
――人のことはよく見てるのに、自分のことは見せないでしょ
係長はいつも、私が図面のどこを見ているのか知っている。
現場で何に引っ掛かったのかも、プレゼンで何を怖がっていたのかも気づいていた。
じゃあ私は係長の何を知っているんだろう。
ブラックコーヒーを飲むこと。
現場に行くと少し元気になること。
カマキリが怖いこと。
知っていることを並べてみたら、どれも断片ばかり。
毎日、すぐ近くにいる。
誰よりも見てきたつもりだった。
でも私は、係長のことをほとんど知らなかった。
電車が駅に止まって、何人かが降りていった。
空いた席は見えたけれど、私はそのまま立っていた。
もっと知りたいと思った。
仕事をしている姿じゃなくて、あの人自身のことを。
会社ではない場所で、図面を挟まずに話してみたい。
どんなものを見て、何をおもしろいと思うのか聞かせてほしい。
でも、何と言って誘えばいいんだろ。
「食事に行きませんか?」
頭の中で言ってみた。
「どうしてだ」って聞かれそう。
そう聞かれたら、もうその先が続かない。
「指導してもらったお礼です」
これなら言えるかもしれない。
でもこんなことを言ったら、また仕事の話に戻ってしまう。
………。
窓に映った私は、困った顔をしていた。
「食事に行きませんか?」
もう一度、頭の中で言ってみた。
電車が私の降りる駅に着いた。
ドアが開いて、人の流れに合わせてホームに降りた。
私には言えないや……
◆第38話「ここにいます」、明日20時に更新します




