第36話「八月十九日、過去の面影」
八月十九日、月曜日。
エレベーターから降りたとき、急に足が重くなった。
お盆休みは終わった。
カレンダーで見ればたったの一週間だったけど、私はもっと長く感じた。
家族と過ごしていても、カフェにいても、気づけばあの人のことを考えていた。
だから今日が来るのをずっと待ってた。
早く月曜日になってって願ってた。
でもいざ前まで来ると、足が止まった。
このガラス扉の向こうには、休みの前と同じ日常がある。
同じデスクに同じ椅子。
休み前の続きから仕事をして……
そう思った瞬間、急に落ち着かなくなった。
会いたい。
でも、会ったら何かが変わってしまう気がする。
会いたい。
でも怖いよ。
矛盾した思いを抱えたまま、深呼吸をした。
――そしてドアを開けた。
いつものフロアに聞き慣れた空調の音がする。
まだ人はいなくて、朝特有の静けさがあった。
私はすぐに、いつも係長のいる席を見た。
……誰もいない。
けど、デスクの上の見覚えのあるボールペンが目に入った。
もう来てる。
席を外しているだけだ。
それが分かった瞬間、ほっとした。
◆
玲さんが来たのは九時の少し前。
「おはよ」
明るい声がした。
「おはようございます」
玲さんはすっかり、いつもどおりに戻ってた。
箱根のホームで泣いてた人と、同じ人とは思えないくらい笑ってる。
荷物を置いて、ノートパソコンを立ち上げた。
今まで見てきた月曜日の朝。
その途中で、玲さんが私を見た。
「ねえ、しおりちゃん」
「はい」
「私、やっぱ諦めない」
一瞬、意味が分からなかった。
玲さんはそんな私を見て笑う。
「お盆の間にいろいろ考えたんだけどね」
そう言いながらパソコンにパスワードを打ち込んでいる。
「やっぱ無理だったよ」
楽しそうな笑顔。
「諦められなかったんだー。 もう好きって言葉じゃないんだよ」
玲さんは強かった。
傷付いても立ち上がって、
泣いてもすぐに前を向く。
そして自分の気持ちから逃げない。
私はまだ、自分の気持ちを言葉にすることすらできていないのに。
そのとき、エレベーターのドアが、開く音がした。
……っ
息が止まる。
分かってしまった。
姿なんて見えてない。
声も聞いてない。
それでも分かる。
頭より先に、体のほうが先に気づいた。
玲さんが、ぱっと立ち上がって入り口に向かって走ってく。
「おはようございます! 係長っ!」
フロアによく通る声。
「お盆、寂しかったですっ」
いつも以上の玲さんだ。
私はパソコンの画面を見ていた。
画面の中にはメールの一覧が並んでる。
でも何も見えてない。
意識は全部、後ろにある。
………。
足音が近づいてきた。
一歩。
また一歩。
近づいてきた。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
なのに顔が上げられない。
自分の体が言うことをきかなくなってる。
足音が私の後ろまで来た。
ああ、何か言わなきゃ通り過ぎちゃう……
そう思った瞬間だった。
「おはよう」
一週間ぶりのこの低い声。
胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
私は全力で顔を上げた。
「お、おはようございます」
声が完全に裏返った。
係長は気にしてない。
「休み、ゆっくりできたか?」
そう言って、返事も聞かずに自分の席に向かっていった。
私はキーボードに手を置いたまま、動けなくなってた。
係長は休み前と同じで何も変わってない。
声も、距離感も。
全部そのまま。
◆
昼休みになって、静かになった。
外に食べに出たり、社員食堂に向かったり、
慌ただしかった連休明けの午前中が嘘みたいに、今は人の気配がしなくなってる。
私は給湯室で入れたお茶を持って、自分の席に戻ろうとしていた。
やっと係長に会えた。
声が裏返ったけど、挨拶できた。
でもまだ体の中が落ち着かなくて、
そんな自分をごまかしながら歩いていた。
係長の後ろを通りかかったとき、
係長は席にいた。
昼休みでも席に残っているところはよく見かける。
だから最初は、そのまま通り過ぎるつもりだった。
ただ、違和感を感じた。
係長が引き出しを開けている。
書類でも探しているのかなと思ったけど、手が動いてない。
何かを取り出そうともしていない。
何もせず、時間が止まったみたいに引き出しの中をじっと見てる。
こんな顔は見たことがない。
仕事中の係長じゃない。
私は思わず見てしまった。
ほんの一瞬。
引き出しの中の、白い封筒。
そして見覚えのある名前、
――篠原美咲
私はその名前を覚えていた。
四月の終わりに、
係長と図面を見ていたあの日。
偶然見えてしまったあの名前。
………。
係長は封筒を見つめていた。
開こうとはせずに、じっと見ている。
私はその横顔を、ずっと見ていた。
係長が急に顔を上げて、目が合った。
私は慌てて目を逸らした。
見てはいけないものを見てしまった気がする。
係長は何も言わずに、そっと引き出しを閉めた。
「……昼か」
「はい」
係長は小さくうなずいて、モニターに目を戻した。
もういつもの係長に戻ってる。
でもさっきの数秒は、違ってた。
◆
呼吸が浅くなったまま、私は自分の席に戻った。
お茶のコップを机に置いて、お箸を割った。
いつもと同じ昼休み。
でも今は何も手につかない。
私の頭の中には、さっきの横顔が残っている。
……あんな顔をするんだ
そう思って苦しくなった。
あの封筒は、まだそこにある。
四月の終わりに見たときと同じ場所。
封を切られないまま、捨てられもせず。
係長はあまり感情を表に出さない。
そんな人が長い時間を越えて、
まだ開封できない手紙を持ってる。
……たぶん、係長の中では、まだ終わってない時間
私はお弁当の蓋を開けたまま、しばらくお箸を動かせなくなってた。
◆第37話「いい目をしている」、本日20時に更新します!




