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第35話「八月十一日、また、会える」

心臓が、まだ変な音を立てている。

昨日からずっと。


  ――係長のこと、好きでしょ


玲さんの声が、まだ耳の奥に残ってる。

頭の中でずっと、同じ場面が再生される。


発車のベルと玲さんの涙が、ぐちゃぐちゃに混ざって離れない。


何度も何度も繰り返す。


八月十一日、日曜日。

一週間のお盆休みに入っていた。


実家に帰る電車の中、

窓に映った自分の顔が、少し疲れて見えた。


帰省ラッシュと重なったのか、車内は思っていたより混んでいた。

通路の先では小さな男の子が窓に張りついて外を眺めている。


そんな何でもない光景を見ながら、私はずっと同じところで止まっていた。


電車がトンネルに入ったとき、


窓ガラスが鏡になって、

そこに映った自分と目が合った。


  ――好きでしょ


玲さんがそう言ったとき、

私は何も答えられなかった。


何か大切な扉の前に立っているような感じ。

一度開けてしまったら、もう後戻りできない。

そんな感覚。


◆


八月十二日、月曜日。


姉と並んでソファに座って、ぼんやりとテレビを見ていた。


人気ドラマだということで、SNSでもよく見かける作品だった。


主人公は無愛想な男。

愛想がなくて、笑わない。

口数も少ない。

だけど、困っている人を見ると放っておけない。


そんな人物だった。


姉がポテトチップスを食べながら言う。


 「こういう人、絶対モテるよね」


母も笑う。


 「確かにねぇ」


……私は返事ができなかった。


主人公が喋るたびに、あの人の声が重なって聞こえていたから。


ドラマの主人公は俳優。

テレビの中の人。


それがなぜか係長に見えてしまう。


朝の挨拶。

ぶっきらぼうな返事。


思い出そうとしているわけじゃなくて、勝手に浮かぶ。

それが困る。


◆


八月十四日、水曜日。


夕方のスーパーは混んでいた。

家族連れも多かった。


私は買い物メモを見ながら店内を歩いていた。


にんじん、玉ねぎ、じゃがいも。

母から頼まれたものを、順番にカゴに入れていく。


次は……


野菜売り場を抜けると、

並んで歩いていた若いカップルの男性が、

ふざけたように、彼女のお尻をぷりんと撫でた。


 「もうっ」


彼女は嬉しそうに笑いながら、彼の腕を軽く叩いた。


 恋人って、ああいうものなんだ……


 もしあそこにいるのが係長で、

 隣を歩いているのが私だったら


その直後、

ひとりで前を歩いている男性の後ろ姿が目に入った。


紺のポロシャツ。

黒いパンツ。

あの肩幅、歩く速さ。


係長。

そう思った。


そして男性が振り返った。


 ………。


知らない人。


当たり前だ。

係長なはずがない。


わかっていたのに、がっかりしている自分がいた。


◆


八月十六日、金曜日。


駅前のカフェ。

外は三十五度を超える暑さなのに、自動ドアをくぐった瞬間にひんやりとした空気が肌を撫でて、思わず肩をすくめる。


窓際の席には高校生のカップルが座っていて、二人で一つのスマートフォンを見ながら笑っていた。

奥の席では三十代くらいの男性が、楽しそうな顔でノートパソコンを開いている。


お盆休みの午後。

店内には穏やかな時間が流れていた。


 「久しぶりー」


先に来ていた麻衣が手を振った。


私が席についてアイスコーヒーを注文したとき、


 「え、アイスコーヒーなの?」


って麻衣が驚いた。


二人でしばらく地元の話をしていた。


大学のときの友達の話。

実家の話。


他愛もない話。


でもいつの間にか……


 「それでね、係長が――」


そこまで言って、口を閉じた。


麻衣がストローを咥えたまま笑っている。


 「また係長?」


思わず目を逸らした。


 「またって?」


 「いや、またじゃん」


麻衣は楽しそうだった。


 「別に普通の話だよ?」


 「うん」


 「普通に仕事の話」


 「うん」


 「ほんとに上司の話」


 「うん」


麻衣はコップの氷をくるりと回して、

からん、と小さな音をたてた。


 「しおりさ」


 「なに?」


 「この一時間で、係長って何回言ったと思う?」


そんなに言ってたつもりはなかった。


 係長が……


 係長は……


 係長なら……


 係長ってね……


確かに何度も言っていた。


 「……そんなに言ってないでしょ」


 「言ってるよ。 めちゃくちゃ言ってる」


 「うそ?」


 「ほんと!」


麻衣が笑った。


本当に思い当たるから、笑えなかった。


係長がカフェで女の子にナンパされてたのに、宗教の勧誘としか思ってなかった話。

係長がカマキリを肩に乗せて固まっていた話。


仕事の話って言っときながら、そんなことばかり話してた気がする。


窓の外では風が吹いてて、

街路樹の葉が揺れている。


麻衣が不意に真面目な顔になった。


 「ねえ」


 「うん」


 「ゴールデンウィークのときもね」


はっとした。


麻衣は続ける。


 「そのときも係長の話ばっかりしてた」


 「……そうだっけ」


 「そう」


そして優しく笑う。


 「しおり、あのとき本当に気付いてなかったの?」


息が詰まった。

気づいていたのか気づいていなかったのか、自分でも分からない。

ただ、あのときより今の方が、ずっと苦しい。


会えないことが落ち着かない。


テレビを見ていても、買い物をしていても、

気づけば思い出してしまってた。

考えないようにしてるだけ。


 「今は?」


窓の外を見た。

夏の光がアスファルトに反射して眩しかった。


言葉はたぶん、もうそこにある。

でも口にするのが怖かった。

口にした瞬間、本当に変わってしまう気がしてる。


だから私は目を伏せて、息を吐いた。


 「……わかってるんだ」


やっと、それだけ言えた。


店にはコーヒーの香りが漂っている。

どこかで食器の触れ合う音がした。

高校生のカップルが笑ってる。


そんな何でもない午後に、

私の中で何かが変わり始めていた。


もう知らないふりが、できなくなってた。


◆


八月十八日、日曜日。


明日になれば会える。


会いたい。


この気持ちはもう隠せない。

でもその先を考えると怖くなった。


もし玲さんの言葉が本当だったら。

もし自分が認めてしまったら。


係長を見る目は変わってしまう。

あの声も、あの仕草も、受け取りかたが変わってしまう。

そしたらもう、戻れない。


それが怖かった。


窓の外では夕暮れが終わろうとしていた。

この景色の中に、係長の姿なんてあるはずがない。

それでも気づけば探してしまう。


明日になれば会える。


……今晩は、眠れそうにない。



◆第36話「過去の面影」、明日、午前11時に更新します!!

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