第34話「八月十日、好きでしょ」
「しおりちゃん、どこか行ってたの?」
玲さんが目を覚ましたのは、七時を過ぎたころだった。
「自販機です」
「おはよ」
「おはようございます」
ペットボトルのお茶を飲んだら、もうぬるくなってた。
玲さんが伸びをしながら「今日どうする?もう少し箱根楽しむ?」と聞いてきた。
「そうですね」と答えながら、頭の中ではラウンジでのことを思い出してた。
霧に包まれた山が見えて、
係長のコーヒーカップから湯気がたってた。
「普段と変わらん」と言って急に横を向いたあの横顔。
「玲さん、帰りのチケット、もう取りましたか?」
係長に聞いたのと同じことを玲さんに聞いていた。
もっと一緒にいたいって思う人に使う言葉なのかな。
「まだだよ。 しおりちゃんは?」
「私もまだです。 あ、でも係長は十六時ごろのを取ったって言ってましたよ」
玲さんが止まった。
「……しおりちゃん、係長と話したの?」
「はい、さっきラウンジで会って」
布団が跳ね上がって、玲さんが飛び起きた。
「ちょっと待って。 え、朝から? ラウンジで?」
「はい」
「何話したの?」
「帰りのこととか、少し」
玲さんがもう洗面所に向かっていた。
「しおりちゃん! 早く準備して!」
「え」
「行くよ」
「どこにですか?」
「係長の部屋!」
十分後には、二人で廊下を走ってた。
玲さんが前で、私が後ろ。
「四〇八号室だったよね⁉」
「はい!」
玲さんがエレベーターのボタンを連打する。
一基が到着して、私たちは大急ぎで乗り込んだ。
四階に向かう途中、隣のエレベーターが下に向かって動いたことに
私たちは気づかなかった。
四〇八号室の前に着いて、玲さんがインターホンを押す。
反応がない。
もう一度押す。
反応が、なかった。
「残念。 もう行っちゃったかー」
玲さんが笑う。
私も笑った。
廊下が静かになっていた。
◆
私たちもチェックアウトを済ませて、旅館を出た。
空が青い。
彫刻の森の前を通ったとき、「そういえば何時の電車って言ってたっけ?」と玲さんが言った。
「十六時ごろって言ってました」
「じゃあ同じ時間にしよう。 しおりちゃんのも一緒に買うねー」
「いいんですか?」
「いいのいいの」
玲さんはそう言って笑ったけど、その笑顔はわずかにこわばってた。
「しおりちゃんって、今日帰ったら何する?」
「洗濯です」
「私も」
普通の会話をしていたけど、本当は二人とも、電車のことを考えていた。
◆
駅に着いたのは、十五時半。
電光掲示板を見ると、15時36分発の電車が案内されていた。
……十六時ごろ。
十六時ごろと言える電車は、15時56分と16時16分のこの2本。
係長が乗るのはどっちだろ。
玲さんが取ったのは16時16分。
前の電車と二十分の差があった。
「係長、もう来るかな」
「どうでしょう」
しばらくして係長が来た。
黒いパンツにグレーのポロシャツを着た休日の係長。
「楽しめたか」
「はい」
「気をつけて帰れ」
昨晩のことも今朝のことも、まるで何もなかったみたい。
やっぱり私なんて、それくらいの存在なのかな。
三人でホームのベンチに座って待った。
玲さんが係長に話しかけて、
係長が短く答えていた。
私が電光掲示板を見ていたとき、
16時56分の表示が出た。
………。
係長が荷物を持って、立ち上がろうとした。
こっちの電車だった。
そのとき――
――玲さんが立ち上がった。
係長より先に。
「係長っ」
玲さんの、大きな声。
「好きです! 私、係長のことが、好きなんです」
ホームに玲さんの声が響いた。
周りの乗客が振り返った。
私も固まった。
係長が玲さんを見た。
少し間があって、
そして――
「俺も好きだ」
係長が言った。
玲さんの顔が、みるみる明るくなっていく。
「山本みたいな姿勢で仕事をする人間。 真面目で、諦めない。そういうお前みたいな人間は、俺も好きだ」
顔が、凍りついた。
「そう……、ですか。 そう、ですよね」
玲さんは、笑った。
電車が来て、発車のベルが鳴った。
係長が乗り込んでしばらくして、電車が動き出した。
そのまま遠ざかっていって見えなくなった。
……。
…………。
ホームに二人が残された。
電車が見えなくなった方向を、しばらく二人で見つづけていた。
玲さんが笑った。
「どうしてああなんだろうね、係長って」
笑い声だけど、震えてる。
「好きって言ったのに、仕事の話になっちゃった」
玲さんの目から涙がこぼれた。
どんどんどんどん溢れてくる。
笑いながら泣いていた。
笑顔を保ったまま、泣いていた。
「傷つくよ。 傷ついていいよね」
私には、言えることが何もなかった。
「係長って、ほんとうに気づかないんだよ。 私がどれだけ好きか、全然わかってない。 わかってないから、あんなこと言っちゃうんだよ」
声がまだ震えてる。
「俺も好きだ、なんて」
玲さんが繰り返した。
ただ苦しそうに。
「あれ、嬉しかったんだよ、一瞬だったけど。 ほんの一瞬だったけど、本当に嬉しかったよ」
私は玲さんを見ていた。
「そのあとすぐ、仕事の話だってわかって。 でもその一瞬が、ひどいよね。 そんな一瞬で、また好きになっちゃうじゃん」
玲さんが空を見上げた。
青から橙に変わりかけた夕方の空。
「私さ、ほんとはもう、諦めようかなって思ってたんだ。 今日が最後にしようって、決めてきてたんだよ」
………。
玲さんがそんな覚悟でここに来ていたことを、知らなかった。
「でも……、やっぱり好きだよ」
ぽつりと言った。
まだ泣きながら笑ってた。
「ほんとに、もう……。 体中、全部、全部、大好きなんだよ……」
胸が本当に苦しかった。
係長が言った「俺も好きだぞ」って言ったあの声が、私の中に残ってる。
あれは玲さんに向けて言った言葉。
でもあれが、私の胸にも刺さってる。
どうして刺さったのかはもうわかってる。
でも私にはどうすることもできない。
「しおりちゃん」
玲さんが言った。
「はい」
「私、しおりちゃんのこと、好きだよ」
「私も、です」
玲さんが私を見た。
まだ涙が乾いていない顔で、真っ直ぐに私を見ていた。
「係長のこと、好きでしょ」
……止まった。
心臓が大きく高鳴って、鳴ってから、止まった。
ホームに風が吹いた。
電光掲示板の表示が、16時16分発の電車に変わっていた。
◆第35話「また、会える」、本日20時に更新します!!




