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第33話「八月九日深夜、背中」

どれくらい時間が経ったんだろう。

もう周りの話し声も聞こえなくなっていた。


係長の肩にもたれたまま、この時間が少しでも長く続いてほしいと願っていた。


しばらくして係長が穏やかに言った。


 「もう休め」


低くて落ち着いた声。


私は返事をしなかった。

返事をしてしまえば、もうこの時間が終わってしまうから。


この二日間、私はずっと我慢してきた。


会えなくて苦しかった。

会えたと思ったら、今度は近くにいるのに近づけなくて苦しかった。


だから今はただこのぬくもりに甘えていたかった。


係長の肩がわずかに動いた。

私は目を閉じたまま。


 「……やです」


このままでいたかった。


 「部屋で寝ろ」


少し困ったような声に聞こえた。


 「……歩けません」


言い訳じゃなくて、お酒のせいか本当に足に力が入らなかった。

立とうとしても、きっとふらついてしまう。


係長は、そっと私の頭を起こした。


 「乗れ」


目を開くと、係長は私の前にしゃがんで背中を向けてくれていた。


  ……広い背中


私はそっと、身を預けた。

胸が背中に押しつぶされる。

首に腕を回すと、係長の背中がすごく温かかった。


係長の手が、私を支えるように、膝の裏に添えられた。


そのままゆっくりと、膝が開いていく。


ゆっくり。


ゆっくり開く。


浴衣の裾も、ゆっくりと



  ああ……



太ももの内側が係長の腰に擦れる。

内側の素肌とその真ん中で、係長の熱を感じた。



  どく、どく、どく



私の中で音がしてる。

耳の奥に響いてくる。


そして係長の両手が、私をぐっと抱え上げた。


体がふわりと浮いた。


私はもう一度、係長の首にしがみついた。


胸がぎゅうって当たってる。

私の内側も当たってる。


  恥ずかしすぎる……


でも、係長の背中が温かい。

耳元に、かすかに乱れた係長の息が聞こえた。


廊下を歩く足音が響く。

背中は温かくて安心できて、このままずっと離れたくないと思ってしまってた。


お願いだから、この廊下が終わりませんように。

部屋になんて着かないでほしい。


本気でそう願ってた。



◆◆



目が覚めたとき、私は布団の中にいた。


障子の向こうがうっすらと明るくなってた。

時計を見ると、朝の五時をすぎたところだった。


隣では玲さんがすやすやと気持ちよさそうに眠っている。

昨夜の賑やかさが嘘みたいに静かになってた。


  ……喉が、渇いたな。


私は起こさないようにそっと布団を抜け出して、そのまま浴衣姿で部屋を出た。


旅館の廊下には誰の姿もない。

窓から差し込む朝の光が、床を白く照らしている。


自動販売機はどこだろう。


そんなことを考えながら歩いていると、不意に昨夜のことが頭に浮かんだ。


この廊下を、私は係長の背中で運ばれた。

恥ずかしかったけど、

温かくて離れたくなかった。


こんな時間だから誰もいないと思って

何気なくラウンジの横を通ったとき、


窓際の席に、一人でコーヒーを飲んでいる人がいた。

湯気の立つカップを手にしたまま、穏やかに外を眺めている。


その横顔を見た瞬間、昨夜の背中の感触が、鮮明によみがえった。



そしてふと顔を上げた――


  ――その視線が重なった。



 「……っ」


思わず足が止まる。

一瞬で顔が熱くなってそれに気づいて、もっと焦った。


そのうえ私はすっぴんだった。

誰にも会わないと思ってそのまま出てきてしまってた。


慌てて両手で顔を隠す。


 「おはようございます」


 「ああ。 おはよう」


いつもと変わらない声。


 「早いですね」


 「いつも通りだ」


係長は窓の外を見たまま言った。


 「あの……すみません、今はお化粧をしていなくて」


私は顔を隠したまま言った。


 「ほんとすみません」


係長が私の手元を見て、それから顔を見た。


 「隠さなくていい」


 「………?」


遠くで鳥の鳴く声がした。



 「普段と変わらん」



係長はまた窓の外を見た。


私はゆっくりと手を下ろして、その横顔を見る。


耳が少し、赤かった。


朝日が当たっているからなのかもしれない。

でも係長はそのあともしばらく、私のほうを見なかった。


◆


ラウンジにあった自動販売機でペットボトルのお茶を買って、係長の隣に座った。


窓の向こうには、箱根の景色が広がっていた。

山にかかった白い霧が、ゆっくりと風に流されながら、木々の緑を見せたり隠したりしている。


沈黙が流れていたけど苦しくない。


同じ景色を眺めているだけで幸せだと思える時間がくるなんて、数か月前の私には想像もできなかった。


私はペットボトルのふたを指先でいじりながら、小さく息を吸った。

昨夜のことを謝らなきゃ。


 「あ、あの、昨晩は――」


 「眠れたか?」


二人の言葉が重なった。


思わず係長を見たら、

係長は窓の外を見たまんま。


 「……はい」


そう答えたけれど、本当はよくわかってなかった。

夢の中でも係長のことを思い出していた気がする。


また静かな時間が流れた。

霧がゆっくりと消えていって、隠されていた山の緑が姿を見せ始めた。


私はその景色を眺めながら、ふと思い出したことを口にした。


 「帰りのチケット、もう取りましたか?」


 「ん? ああ。十六時ごろのをな」


 ……十六時かぁ


 「そうですか」


 「ん?」


 「あ……、いえ。 すみません」


係長は最後のひと口を飲み終えると、ゆっくりと立ち上がった。


 「行くか」


 「はい」


私も立ち上がる。


並んで歩く廊下は、昨夜とはまるで違ってた。

一歩一歩、私に合わせてくれるこの歩幅が、すごく温かかった。


部屋の前に着いて足が止まった。

係長はいつものように、



 「ゆっくり休め」



そう言った。


  この人は全部、気づいてたんだ……


頷くことしかできずに、

ゆっくりと遠ざかっていく係長の背中を、ただ見つめていた。


昨日の夜、私を運んでくれた背中。


今日もまた、私はその背中を追いかけていた。



◆第34話「好きでしょ」、明日、午前11時に更新します

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