第32話「八月九日夜、来てくれてよかった」
昨日と今日、二日間の箱根研修が終わった。
温泉から上がると体のほうは軽くなってた。
浴衣に着替えて、大広間に向かう。
到着したのは十九時の十分前。
一歩足を踏み入れた瞬間、思わず息をのんだ。
広い畳の上に朱塗りの小さな膳がずらりと並んでいた。
そしてもうかなりの人数がそこにいた。
私は気づけば探してた。
…………。
……いた。
でも――
――両隣に、女性社員が座ってた。
前にも。
正面にも。
昨日は係長がいなくて、一日中落ち着かなかった。
今日は近づけなくて、一日中苦しかった。
今はいる。
そこにいる。
でも隣に行けない……
二日間我慢していた苦しさに、また息が詰まった。
私は隅っこに正座した。
玲さんが隣に来てくれて、
「係長、もう囲まれてるね」って小声で言った。
「そうですね」と私も小声で返事した。
◆
ちょうど十九時になったとき、総務部長が立ち上がった。
「皆さん、二日間お疲れさまでした。 楽しい夜を。 かんぱーい」
一斉にビールを飲んで、拍手が起きた。
夕食会の始まりだ。
お造り。焼き物。炊き合わせ。
料理はとてもおいしい。
でも、ときどき視線が向こうにいってしまう。
係長の隣の女性が嬉しそうにビールを注いでる。
グラスが少し空くと、反対側の女性が笑顔で注ぐ。
係長が「ああ」と言って飲むと、
またすぐに注がれる。
女性たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
……なんなんだろ、あの人
あの人は別に何もしていない。
いつもの感じで座ってるだけ。
話しかけられたから返事をした。
お酌されたからそれを飲んだ。
特別なことは何もしていないのに、どうしてあんなに人が集まるんだろ。
むこうでまた笑い声がした。
係長が小さく口元を緩めた。
それに気づいて、胸の奥がちくりとした。
……なんなんだろうこの感じ
係長がグラスを傾けた。
どうして私はこんな顔をしてるんだ。
料理を口に運んだ。
きっとおいしい。
でも味がしない。
◆
二十分くらいすると、ビール瓶を持って注いで回る人がちらほら増えた。
椎名さんが重役のグラスに注いで回ってる。
愛想よく笑いながら、上手にやってる。
玲さんがビール瓶を持って立ち上がった。
「私もちょっと行ってくる」
そう言って、係長たちの輪のほうに歩いていった。
あっという間に女性社員たちの中に溶け込んで、楽しそうな笑い声をあげていた。
私は一人でビールの泡が消えていくのを、ぼんやりと眺めていた。
……玲さんみたいには動けないや
さっきから近くの席でちらちらと私を見ていた男性たちが、玲さんがいなくなった途端、ここぞとばかりに近づいてきた。
「風宮さん、一年目なんだね」
「どこ出身?」
「もう一杯いっとこうよ」
空いてないグラスに注がれた。
違う人が来て、ほとんど空いてないのにまた注がれた。
向こうを見ると、係長を囲む輪が大きくなってた。
笑い声が聞こえる。
誰かが係長に何か言って、また笑い声が起きた。
私はグラスを口にした。
飲むと少し楽になれる気がして、
いつの間にか、注がれるまま飲んでいた。
◆
頭がふわふわしてきた。
「風宮さん、顔赤いねー」
隣の男性社員が笑ってる。
「もう一杯いこうよ」と言いながら、私のグラスにまた注いだ。
向こうを見た。
あれ?
係長?
さっきまでいたのに、いない。
席が空いている。
あれ?と思ってたら――
「ちょっと来い」
手が、ぐっと引っ張られた。
聞き覚えのある低い声。
◆
大広間から少し離れた縁側。
係長は私をそこに座らせて、自分も隣に座った。
夜の庭。
石灯ろうに灯りがついている。
「飲みすぎだ」
「ひゃっ」
冷たいものが頬に当たった。
係長は庭を見たまま、麦茶のペットボトルを渡してくれた。
冷たいお茶を飲んだら、ほてった体に沁みてく感じがした。
しばらく黙って庭を見ていた。
虫の声が聞こえる。
「係長はどうして設計士になったんですか?」
なんとなく、そう聞いた。
係長が少し間を置いて、
「わからん」
そう言った。
「……え」
意外すぎた。
「深く考えずに決めて、気がついたらここにいた」
思っていた答えと全然違ってた。
係長はずっと設計士になりたかった人だと思ってた。
最初からここに向かってた人だと思ってた。
でも違ってた。
……私と同じだったんだ
それがとても嬉しく思えた。
「風宮は設計士になってよかったか」
係長が聞いた。
「……まだよくわかりません」
「そうか」
わずかに風が吹いた。
「俺は、風宮が来てくれてよかったと思っている」
穏やかな声だった。
………っ。
私は、設計士になってよかったかどうかは、まだわからない。
でも――
――この人に出会えてよかった
そう思えた。
酔っていることを言い訳にして、
係長の肩にもたれてみた。
……。
なんだかすごく安心する。
係長は動かない。
………。
気づいたら係長の肩に私の頬がくっついてた。
気づいて、はっとしたけど離れたくない。
きっとお酒のせいだ。
係長は何も言わずに肩を貸してくれた。
灯ろうの灯りが揺れている。
虫の声が聞こえてる。
……係長の肩が温かい
昨日感じていた落ち着かなさも、
今日感じた苦しさも、
両方とも、消えていく。
私は目を閉じた。
この人の隣はどうしてこんなに安心するんだろ。
もう少し、このままでいたい。
◆第33話「八月九日深夜、背中」、本日土曜日の、20時に更新します!




