↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/79

第31話「八月九日、いるのに遠い」

八月九日、金曜日。


箱根研修二日目の朝を迎えて、

今日も大広間に全員が集まっていた。


前に立った総務部の男性がマイクを持つ。


 「えー、本日は協力をテーマに、この旅館内で、ふたり一組の謎解きイベントを行います。 誰とペアになるかは、くじ引きで決定しまーす」


会場がざわついた。


 「えっ、面白そう!」


 「研修で謎解きってなに」


あちこちで笑い声が上がる。

私もつられて笑ったけど、内心ではどきどきしてた。


 ……くじ引き


誰とペアになるんだろ。

もし係長とだったら……


前にいる人から順番に、穴の開いた箱に手を入れて小さな紙を引いていった。


番が回ってきて、箱から引いた紙を開く。


……26。


少し遅れて、係長もくじを引いた。


全員が引き終えたところで、司会の人が声を上げた。


 「1番のかたー」


 「はーい」「はい」


二人の社員が手を上げた。


 「2番のかたー」


 「はいっ」「うわっ」


  ……。


 「18番のかたー」


旅館のあちこちで歓声が上がって、次々にペアが決まっていく。

係長はまだ手を挙げていない。


 「25番のかたー」


次は私だ。


 「26番のかたー」


私が手を上げると、


 「わー、やったー!」


って、隣で玲さんが嬉しそうに笑った。

私のペアはなんと玲さんだった。


 「よろしくねっ」


 「はい、よろしくお願いします」


思わず笑顔になった。


これで相手は玲さんに決定した。

それは嬉しかった。


でも……


係長は、何番なんだろ。

誰が係長と謎解きをするんだろ。


順にひとつずつ番号が読み上げられていく。


40番。


50番。


60番。


まだ係長は手を上げない。

自然とその姿を見てしまってた。


 「67番のかたー」


係長が静かに手を上げた。


その瞬間――


 「きゃーっ!」


弾けるような声がこの大広間に響いた。

総務部の桜井さんが、満面の笑みで係長に駆け寄った。


 「馬平さん! ペア、よろしくお願いしますっ!」


係長は驚いたように桜井さんを見てから、


 「ああ」


と短く答えてた。


私は溜息をついて前を向いた。


◆


全員のペアが決まったところで謎解きが始まった。


この旅館のどこか十か所にヒントが隠されているらしい。

制限時間は今から正午までの二時間半。


玲さんと地図を広げて、最初の目的地を確認する。


 「最初はこっちでしょうか」


 「あっちじゃない?」


地図を見ながら廊下を歩いて角を曲がった、そのときだった。


 「あ……」


思わず足が止まった。

曲がった先に係長がいたから。


 ……係長


その姿が見えて、嬉しくなった。

でもその気持ちは、次の一歩を踏み出す間もなくすぐ消えた。


係長の隣の桜井さんが、同じ地図をのぞきながら、係長の腕に触れたんだ。


係長はわずかに体を引いたけど、桜井さんは気にしていないのか、触れたまま、何か話してる。

係長は困った顔で、うなずいている。


 「あの子、近すぎ」


玲さんが小声で言った。

私は何も言わなかったけど、同じことを思ってた。


◆


 「次のヒント、あっちの方じゃないかな」


玲さんが廊下の先を指さした。

係長たちが歩いていった方向。


 「はい、行ってみましょう」


私たちが謎を追っていないことは、お互いに気づいてた。


廊下の先の縁側の近くまで来ると、また係長の姿が見えた。

桜井さんが係長の袖を引っぱってた。


 「馬平さん、こっちじゃないですか?」


そう言って、今度は係長の手を握った。


 ……っ


係長は立ち止まってる。

手は握られたまま。


桜井さんは笑顔でさらにもう一歩近づいた。


 「ちょっと! やだっ」


耳元で玲さんの声が聞こえた。

私は息も吸えなくなってた。


◆


そのあと、廊下ですれ違ったとき、

係長も私たちに気づいて目が合った。


今、声をかけようと思えば、かけられる距離にいる――


 「風宮」


先に声を出したのは係長だった。


今日初めて私の名前が呼ばれた。


 「……っ、は、ははいっ」


慌てすぎて、首は振り返っているのに足が止まらなくて、私はドスンと尻もちをついてしまった。


 「……大丈夫か」


係長の声が聞こえた。

桜井さんは「きゃっ、大丈夫ですか?」って楽しそうに笑いながら、また係長の手を引っ張っていた。


◆


午後になって、大広間で結果発表が始まった。


最下位から順番に順位が読み上げられていく。


私たちはすぐだった。

景品の入った封筒を受け取って、玲さんと顔を見合わせて笑い合った。


 「甘味処のかき氷券だー」


 「あとで行きましょう」


そんな話をしているうちに、順位発表は終盤まで進んでいた。


 「第二位は! 馬平・桜井ペアでーす!」


係長と桜井さんの名前が呼ばれて、

会場から拍手が起こった。


桜井さんは封筒を開いた途端、ぱっと顔を輝かせた。


 「やったー! 早雲庵の温泉饅頭、食べ放題ですー!」


朝のときと同じくらい嬉しそうな声が大広間に響いた。

その勢いのまま係長の腕に両手を回して、


 「馬平さん、早く行きましょ行きましょっ!」


って笑ってる。


係長は困ったように桜井さんを見た。

何か言おうとしたように見えた。

でも結局、小さくうなずくことしかしなかった。


 「……またやってる」


玲さんがつぶやいた。


周りは拍手をしている。

だから私も笑顔を作って拍手した。


もう桜井さんは係長の腕を引きながら、旅館の玄関に向かってる。


係長も歩き出してる。

途中で一度、こっちに顔を向けた。

でもすぐに桜井さんが何か話しかけて、係長は桜井さんのほうに顔を戻した。


玄関の扉から夏の光が差し込んで、二人の姿はその光の中に消えていった。


私は、目を離せなかった。

扉が静かに閉まっても、しばらく扉を見続けていた。


◆


私たちの景品の甘味処は、旅館から五分ほど歩いたところにあった。

古い木造の店で、窓からは涼しい山の風が穏やかに入ってきていた。


運ばれてきたのは、大きなマンゴー味のかき氷だった。


 「大きいねー」


玲さんが笑う。


 「ほんとに大きいですね」


私も笑って、スプーンを入れた。

熱くなっていた体にかき氷の冷たさが染み込んでいくみたいで、とても気持ちよかった。


店の外では蝉が鳴いてて、店の奥からは氷を削る音が聞こえてきてた。


 「疲れたね」


玲さんがぽつりと言った。


 「そうですね」


 「それにしても桜井さん、すごかったね。 係長、ずっと困ってた」


 「……そうですね」


玲さんが笑った。


 「しおりちゃん、『そうですね』しか言ってない」


苦笑いが漏れた。


 「すみません」


 「だから、謝らなくていいって」


玲さんはかき氷をひと口食べて、窓の外に目をやった。


 「温泉饅頭食べ放題かぁ」


私は黙っていた。


 「係長、甘いもの苦手なのにね」


玲さんは寂しそうに笑って、「桜井さん、知らないんだろうね」って付け足した。


口に運んだかき氷は冷たいのに、もう体を冷やしてくれなくなってた。


 「ねえ、しおりちゃん。 今日、しんどくなかった?」


答えがすぐには出てこなかった。


 「謎解き、たくさん歩きましたから」


下手なごまかしだと、自分でもわかった。


 「そっかー」


玲さんはそう言って、またスプーンでかき氷をすくった。


窓の向こうでは、夏の日差しが山の木々を照らしている。


 「私ね」


玲さんの声が小さくなった。


 「今日、係長が別の子と一日中一緒にいるのを見てたら、泣きそうになったよ」


私は器の中を見つめた。

かき氷はもう半分以上溶けている。


 「桜井さんのこと、嫌いじゃないんだよ。 明るいし、いい子だし」


 「………」


 「でも、嫌だった」


玲さんの声が、もっと小さくなってた。


 「係長の隣に誰かがいる景色を見るとさ……」


玲さんは窓の外に目を向ける。


 「去年は、そこに私がいたんだなって思っちゃうんだ」


その言葉に胸が締めつけられた。


 「しおりちゃんは?」


答えられなかった。

溶け始めた氷にスプーンを差し込んでも、もうしゃりっという音はしない。


 「そうは思わなかった?」


言葉にしたら、もう戻れなくなる気がした。


 「……わかりません」


そう答えた。


 「ほんとに?」


大きく息を吐いた。


 「でも……」


玲さんは、黙って待ってくれた。


 「見たくなかったです」


そう言うのが精一杯だった。

玲さんは何も言わずにうなずいて、溶けた氷をひと口すくう。


 「そっか」


それ以上は何も聞いてこなかった。


私もかき氷をスプーンですくう。

山のようだったかき氷は、もうほとんど水になってた。


今日一日、係長の姿は何度も目にしていた。


あんなに近くにいたのに、

一度も隣に行けなかった……



◆第32話「八月九日夜、来てくれてよかった」、明日土曜日は、午前11時に更新します!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『このおっさんは、なぜかモテる』全79話完結
全79話に登場人物紹介とあとがきを加えた完全版を制作しています。
▶ 完全版についてのお知らせをnoteで読む

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。