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第30話「八月八日、姿が見えないだけで」

箱根の旅館は、想像していたよりも大きかった。

廊下が長くて庭が広くて、でも畳の匂いがどこか懐かしい。


八月八日、木曜日。

全社をあげて、二日間の研修合宿、

箱根旅館の一日目。


午前十時、社員全員、百人以上がこの大広間に集まっていた。


私はそこで、探してしまった。


………。


そして見つけた。


畳の上でもいつもの馬平係長。

濃紺のスーツ姿で背筋が伸びている。

課長たちと何かを話しているみたい。


 ……っ


目が合いそうになって、慌てて前を見た。


総務部の男性が「それでは役職別に分かれてください」と言うと、

係長のいるグループが動き始めた。


紺色の背中が広間の奥に消えていった。


私はそれを、この場所から見送った。


……。


全体の移動が終わると、役職のない社員がこの大広間に残った。


知っている顔もある。

他の部署の同期たちや玲さん、椎名さん。


◆


しばらくして、私たちに向けた研修が始まった。


まずは会社の歴史。

前方の白い壁に映し出されたスライドが、次々と切り替わっていく。

創業からの年表、大きな現場の写真に受賞歴。


メモを取りながら何度か、ふと顔を上げた。

いつもなら顔を上げれば係長が見える。


でも今日は見えない。

それがなんだか落ち着かなかった。


次に名刺交換の練習が始まった。

隣の人と交換して、前後の人とも交換する。

そしてまた隣の人と交換した。


 「よろしくお願いいたします」


 「よろしくお願いいたします」


同じ言葉を繰り返しながら、頭の中では別のことを考えていた。


◆


私たちは昼食を旅館の中の食堂で取った。

役職別に、食事をする場所が違うらしい。


係長がいない。


 ……わかってたけど。


玲さんが隣に座って話しかけてくれた。


 「係長たち、どこで食べてるんだろうね」


 「さあ、どこですかね」


 「別の部屋かな。 いいもの食べてそ」


私は食堂の入口を見た。

入口の向こうには長い廊下が続いていた。


◆


午後の研修が始まったとき、窓の外の庭を、係長のグループが横切るのが見えた。


馬平係長は課長グループに混じっていて、歩きながら何かを説明しているみたい。

周りの課長たちがうんうんとうなずいている。


ほんの一瞬だったけど、そんな後ろ姿を見ることができた。


私はすぐに前を向いた。

スライドの内容が、頭に入ってこなくなった。


◆


夕食のときも、係長の姿はなかった。


何度も食堂の入口を見てしまう。


玲さんが話しかけてきて、


笑ってはいたけど、


なんだかずっと落ち着かなかった。


◆


部屋に戻って浴衣に着替えた。


玲さんが布団の上に寝転んで、天井を見ている。


 「今日いちにち、長かったねー」


 「そうですね」


 「でも箱根って、いいところだよね」


 「そうですね」


そうしてしばらく二人で話していた。


 「ねえしおりちゃん?」


 「はい」


 「私ね、ずっと係長のことが好きなんだ」


 「……知ってます」


 「最初はただ素敵だなって思っただけだったの。 でもなんか、どんどん深くなっていったんだよね」


私はうつむいてしまった。


 「しおりちゃんは係長のこと、どう思う?」


顔が少し熱くなった。


 「……指導してくださる方だと思ってます」


 「そうなんだ」


玲さんが寝転んだまま言った。


 「去年の末にね……」


玲さんが続ける。


 「係長が出張で三日間いなかったことがあったんだ」


 「はい」


 「あのとき、係長のデスクが空っぽだっただけで、なんかずっと仕事に集中できなかったんだよね」


そして、「変でしょ」って、玲さんが笑った。


「変じゃない」って思ったけど、言えなかった。


私は今日、研修中に何度も何度も顔を上げた。

いない横顔を探してた。


 ……同じだ。


そう思って、目を伏せた。


 「しおりちゃんはそういうの、ないの? 誰かのこと、気になっちゃうみたいな」


 「……どうなんでしょう」


 「あ、ごまかした」


玲さんが起き上がって私を見た。


 「ごまかしてないです」


 「ほんとに?」


少しして、玲さんがまた横になった。


 「不愛想なのにさ、相談したいときとか、しんどいときには、不思議とそばにいてくれるんだよね。 何も聞かないで、ただいてくれてるって感じ。 話したければ話してもいいし、嫌なら話さなくてもいい、って言ってるような、そんな感じで」


私は何も言えなかった。


 「しっかり眠れてるか?とかさ」


玲さんが、ふっと笑った。


 「私の顔も見ずに通り過ぎながら、そういうことを言うんだよ。 それがなんか、ずるいよね」


 ……ずるい


私もそう思ったことがある。


 「じわじわくるじゃん、ああいうの。 最初はそんなつもりなかったのに、気づいたら抜けなくなってるの」


布団の端を指で摘みながら、玲さんの話を聞いていた。

途中から、なんだか私の話を聞かされているみたいに思った。


 「今日みたいにさ、姿が見えないだけで、なんだか不安になるんだよ。 そしていつの間にか探してる」


 「……」


 「しおりちゃんもそういうの、なかった?」


布団の縫い目から、目を動かせなくなってた。


 「……わかりません」


玲さんが黙った。


そして少しして、「そっか」と言って、

それっきり何も言わなくなった。


 ……。


部屋が静かになった。


私も布団の中で横になって、今日一日のことを順番に思い出した。


 …… 一日中、いなかった。


いなかった人のことを、一日中、考えてた。


静かな部屋の中に、玲さんの寝息が聞こえてきた。

私は天井を見たまま目を閉じた。


 ……係長の顔が浮かんだ。


探してた。


気づけばずっと。

今日一日、私は係長を探していた。



いつも最後までお読みいただきありがとうございます。

みんなの恋が動き始めました。


◆第31話「いるのに遠い」、明日20時に更新します!


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