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29/29

第29話「七月三十一日、好きなのかもしれない」

七月最後の日の雨は、朝から本降りだった。


私は車の助手席に座っている。

フロントガラスに雨がばちばちと叩きつけられていて、ワイパーがせわしなく動いている。


  ――今日は午後から雷雨になる可能性があります


朝のテレビがそう言っていたのを今思い出した。


隣の運転席では係長が、いつものとおりにハンドルを握っている。



出社してすぐ、


 「午後から現場、行けるか?」


と係長に聞かれたとき、


 「はい」


と答えてしまってた。


暗い部屋でソファに座っていた昨日の夜のことを、まだはっきりと覚えている。


椎名さんに「ごめんなさい」と言ったとき、

心に浮かんでいたのは誰なのか。


その答えに手が届きそうになって、私は考えるのを止めたんだ。


今、横を見ればすぐそこに係長がいる。

だから私は、窓の外をずっと見てた。



工事現場に到着した私たちは雨の中、現場監督さんと十か所ほど寸法を確認した。

そして監督さんと別れて、二人で現場事務所と呼ばれる小さなプレハブ小屋に入った。


中はとても狭くて、折りたたみの長机を二つ並べて図面を広げると、

室内にはもうほとんどスペースが残っていなかった。


この雨のせいで現場の作業は止まっている。

外で確認した内容を整理するにはちょうどよかった。


薄い鉄板の屋根を、ばしばしと雨が途切れることなく叩いている。


係長が机の図面を指差した。



 「ここだ」



私はメモを取った。


 「ここの寸法、この図面と一致していたな」


 「……はい」


雨音が大きくて声が聞こえにくくて、

思わず耳を近づけた。

係長も、聞こえるように顔を寄せた。



 「ここも、こっちから追うと現場の寸法と一致していたのが分かったか」



 「……はい、分かりました」


どきどきして落ち着かない。

図面を見てはいるものの、意識は係長に向いてしまう。


外では雨脚がさらに強くなって、

鉄板を叩く音が一段と激しくなった。


次の瞬間、窓の外が真っ白になった。


同時に――



 バァァンッ!!



鼓膜が破れるほどの轟音が、小屋を揺らした。


 「ひっ……!」


息が止まった。


その直後――



 グシャァァァンッ!!



景色を変えたあの音が、私の中にこだました。

目の前の図面が消えて、あの日の現場が蘇った。


空気が割れて、

地面が揺れて、

白い煙が舞い上がった。


 ……っ


呼吸ができない。


 違う。

 今のは雷。

 事故じゃない。


わかっていても、この体が、あの瞬間に戻ってしまう。


指先が、膝が、全身が、震えだした。


手に力が入らなくなって、ペンが机の上を転がった。


 「風宮!」


係長の声がした。


返事をしようとしても、声が出ない。

体が動かなくなってた。


 ――あっ


 ………。


気づけば私は、係長の胸に引き寄せられてた。

背中に回された腕が、震える私をしっかりと支えてくれていた。


 「大丈夫だ」


低くて落ち着いた声。


私の呼吸は浅かった。

息を吸おうとしてもうまく吸えない。


でも――


係長の胸に頬が触れて、係長の鼓動が聞こえてきた。


 どくん、どくん


その音を聞いているうちに、

私の呼吸が戻ってきた。


雷鳴は、いつの間にか遠くにいってた。

雨が屋根を叩く音も、さっきより穏やかになっている。


体から震えが少しずつ抜けていく。


係長は何も言わず、私の震えが止まるまで、抱きしめていてくれた。


 ………。


どれくらい時間が過ぎたんだろう。


私は大きく息を吸った。


 「……もう、大丈夫です」


係長はすぐには腕を離さなかった。

私の声を確かめるように、一瞬、間を置いてから、


 「そうか」


と言って、腕をゆっくりと離した。


 「続けられるか?」


 「……はい」


係長はまた図面を見た。

私も隣で図面を見た。


仕事には戻ったけれど、

図面の中身はもう頭に入ってこなくなってた。



会社へ戻るころになっても、雨はまだ降り続いていた。

行きと同じように、運転席で係長がハンドルを握っている。


雨で視界がにじんでる。


車の中は静かだった。


 「……すみませんでした」


私がそう言うと、

係長は前を向いたまま、


 「気にするな」


って言ってくれた。


……。


私は窓の外を見た。


ガラスを伝う雨粒が、何本もの線になって流れていく。


赤信号で車が止まったとき、


 「寒くないか?」


係長はそう言って、エアコンの温度をひとつ上げた。


 「大丈夫です」


私がそう答えようとしたときには、もう車は走り出していた。


……。


沈黙の中で、さっきのことを思い出してた。


係長は変わらず前を見ている。


私はその横顔を見て、また窓の外を見た。

少しして、また見てしまってた。


見ないようにしよう、そう思えば思うほど、

目が勝手に係長を見てしまう。


昨日の夜、

私は答えを出さないまま、考えるのをやめた。


でももう無理かもしれない。


さっきから胸が苦しいのは、雷のせいじゃない。


この人が隣にいることで、

こんなにも胸が苦しくなる理由。


知らないふりができなくなりそう……



◆第30話「姿が見えないだけで」、明日20時に更新します!

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