第29話「七月三十一日、好きなのかもしれない」
七月最後の日の雨は、朝から本降りだった。
私は車の助手席に座っている。
フロントガラスに雨がばちばちと叩きつけられていて、ワイパーがせわしなく動いている。
――今日は午後から雷雨になる可能性があります
朝のテレビがそう言っていたのを今思い出した。
隣の運転席では係長が、いつものとおりにハンドルを握っている。
◆
出社してすぐ、
「午後から現場、行けるか?」
と係長に聞かれたとき、
「はい」
と答えてしまってた。
暗い部屋でソファに座っていた昨日の夜のことを、まだはっきりと覚えている。
椎名さんに「ごめんなさい」と言ったとき、
心に浮かんでいたのは誰なのか。
その答えに手が届きそうになって、私は考えるのを止めたんだ。
今、横を見ればすぐそこに係長がいる。
だから私は、窓の外をずっと見てた。
◆
工事現場に到着した私たちは雨の中、現場監督さんと十か所ほど寸法を確認した。
そして監督さんと別れて、二人で現場事務所と呼ばれる小さなプレハブ小屋に入った。
中はとても狭くて、折りたたみの長机を二つ並べて図面を広げると、
室内にはもうほとんどスペースが残っていなかった。
この雨のせいで現場の作業は止まっている。
外で確認した内容を整理するにはちょうどよかった。
薄い鉄板の屋根を、ばしばしと雨が途切れることなく叩いている。
係長が机の図面を指差した。
「ここだ」
私はメモを取った。
「ここの寸法、この図面と一致していたな」
「……はい」
雨音が大きくて声が聞こえにくくて、
思わず耳を近づけた。
係長も、聞こえるように顔を寄せた。
「ここも、こっちから追うと現場の寸法と一致していたのが分かったか」
「……はい、分かりました」
どきどきして落ち着かない。
図面を見てはいるものの、意識は係長に向いてしまう。
外では雨脚がさらに強くなって、
鉄板を叩く音が一段と激しくなった。
次の瞬間、窓の外が真っ白になった。
同時に――
バァァンッ!!
鼓膜が破れるほどの轟音が、小屋を揺らした。
「ひっ……!」
息が止まった。
その直後――
グシャァァァンッ!!
景色を変えたあの音が、私の中にこだました。
目の前の図面が消えて、あの日の現場が蘇った。
空気が割れて、
地面が揺れて、
白い煙が舞い上がった。
……っ
呼吸ができない。
違う。
今のは雷。
事故じゃない。
わかっていても、この体が、あの瞬間に戻ってしまう。
指先が、膝が、全身が、震えだした。
手に力が入らなくなって、ペンが机の上を転がった。
「風宮!」
係長の声がした。
返事をしようとしても、声が出ない。
体が動かなくなってた。
――あっ
………。
気づけば私は、係長の胸に引き寄せられてた。
背中に回された腕が、震える私をしっかりと支えてくれていた。
「大丈夫だ」
低くて落ち着いた声。
私の呼吸は浅かった。
息を吸おうとしてもうまく吸えない。
でも――
係長の胸に頬が触れて、係長の鼓動が聞こえてきた。
どくん、どくん
その音を聞いているうちに、
私の呼吸が戻ってきた。
雷鳴は、いつの間にか遠くにいってた。
雨が屋根を叩く音も、さっきより穏やかになっている。
体から震えが少しずつ抜けていく。
係長は何も言わず、私の震えが止まるまで、抱きしめていてくれた。
………。
どれくらい時間が過ぎたんだろう。
私は大きく息を吸った。
「……もう、大丈夫です」
係長はすぐには腕を離さなかった。
私の声を確かめるように、一瞬、間を置いてから、
「そうか」
と言って、腕をゆっくりと離した。
「続けられるか?」
「……はい」
係長はまた図面を見た。
私も隣で図面を見た。
仕事には戻ったけれど、
図面の中身はもう頭に入ってこなくなってた。
◆
会社へ戻るころになっても、雨はまだ降り続いていた。
行きと同じように、運転席で係長がハンドルを握っている。
雨で視界がにじんでる。
車の中は静かだった。
「……すみませんでした」
私がそう言うと、
係長は前を向いたまま、
「気にするな」
って言ってくれた。
……。
私は窓の外を見た。
ガラスを伝う雨粒が、何本もの線になって流れていく。
赤信号で車が止まったとき、
「寒くないか?」
係長はそう言って、エアコンの温度をひとつ上げた。
「大丈夫です」
私がそう答えようとしたときには、もう車は走り出していた。
……。
沈黙の中で、さっきのことを思い出してた。
係長は変わらず前を見ている。
私はその横顔を見て、また窓の外を見た。
少しして、また見てしまってた。
見ないようにしよう、そう思えば思うほど、
目が勝手に係長を見てしまう。
昨日の夜、
私は答えを出さないまま、考えるのをやめた。
でももう無理かもしれない。
さっきから胸が苦しいのは、雷のせいじゃない。
この人が隣にいることで、
こんなにも胸が苦しくなる理由。
知らないふりができなくなりそう……
◆第30話「姿が見えないだけで」、明日20時に更新します!




