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第28話「七月九日、本当の理由」

七月九日、火曜日。

退社前のエレベーターホールで、

椎名さんに呼び止められた。


 「風宮さん、少しいい?」


人の少ない時間を選んできたんだと、すぐにわかった。


 「はい」


 「単刀直入に言うね」


自信に満ちた笑顔で、


 「俺と付き合ってみない?」


 「ごめんなさい」


ぜんぜん迷わずに、

私の中からごめんなさいがすぐに出た。


椎名さんの笑顔が固まった。


 「即答?」


 「ごめんなさい」


もう一度頭を下げた。

それしか言えなかった。


 「……どうして」


声が震えている。


 「俺、何かした?」


 「そういうわけじゃありません」


 「じゃあどうして?」


答えられなかった。

自分でも理由がわからなかったから。


 「好きな人、いるの?」


心臓がひと拍、強く打った。


 「……わかりません」


 「それ、いないって意味?」


首を横に振ろうとした。


 「風宮さんってさ」


椎名さんは少し笑った。


 「最初から俺のこと避けてたよね」


 「………」


 「俺のどこが嫌い?」


 「嫌いじゃありません」


 「じゃあ、どうしてなんだよ……」


声に怒りと戸惑いが混じっていた。


しばらく沈黙が続いたあと、椎名さんは小さく息を吐いた。


 「……いや、もういい」


一歩、後ろに下がった。


 「俺の顔、一回も、ちゃんと見たことないよね」


 「……え?」


 「いつ話しかけても、いつもどこか違うところを見てる」


その瞬間、エレベーターの扉が開いて――


  ――係長が現れた。


コンビニの袋を片手に提げて、私たちを見た。


 「ああ、お疲れ」


よく通る声。

いつもの無表情。


 「お疲れさまです」


返事をした私の声が上ずった。


 「あ」


係長は二、三歩進んだところで立ち止まって、なにかを思い出したように袋の中に手を入れた。

そして小さなペットボトルを取り出した。


 「これ」


チャイ。


 「………」


私は両手でそれを受け取った。

ペットボトルの冷たさが、指先に伝わってきた。


何か言わなきゃ。

そう思っているのに出てこない。


 「じゃ」


係長はデスクに向かって歩いていった。

私はその後ろ姿を目で追ってた。

背中が見えなくなるまで、ずっと。


 「……風宮さん?」


はっとして振り返る。


椎名さんが、私を見てた。


そして寂しそうに笑った。


 「俺、まだここにいるんだけど……」


胸が締めつけられた。

何も言えなかった。


数秒の沈黙のあと、椎名さんはうなずいた。


 「そっか」


エレベーターのボタンを押して、開いた扉に乗り込んだ。

閉まりかけた扉の向こうでもう一度、私を見た。



しばらくして一階に降りて、エントランスホールまで来た。

自動ドアが開くと、夕方の風が頬に当たった。


そこでやっと、息を吐いた。


さっきまで、ほとんど息ができてなかったみたい……。


  ――お疲れ


係長の声が耳に残っている。


毎日のように聞いている言葉。

なのに今日は、胸が少し苦しくなった。


 どうして……


立ち止まって振り返った。


ガラスに映った自分の顔が、赤くなってた。

頬に触れると熱くなってた。


恥ずかしかったから?


  ――俺の顔、一回もちゃんと見たことないよね


係長がチャイを渡してくれた瞬間を思い出した。


 ……ありがとうございます


それさえ、言えなかった。


私はどうしてあんなに慌てたんだろ。



家に着いた。

電気をつける気にはならなかった。


カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、真っ暗な部屋をぼんやりと照らしている。


そのままソファに腰を下ろして目を閉じた。


椎名さんに言われた言葉が、何度も頭の中で繰り返す。


  ――好きな人がいるの?


もう一度、口にしてみた。


 「……わかりません」


違う気がする。


本当にわからないのかな。


考えようとすると、胸が落ち着かなくなった。

答えが浮かびそうになるたびに、目を逸らしたくなった。


  ――俺の顔、一回もちゃんと見たことないよね


入社の初日。


  ――君、モデルさん?


そう言われたとき、


  ……またこういう人か


そう思った。


………。


スマホを手に取って、


写真フォルダの七夕の、短冊を見た。


  『風宮が一人前の設計士になること』


あのとき私は願ってた。

係長のでありますようにって。


画面を見つめたまま。


ふいに景色が浮かんできた。


休日の朝、緑のロンTで車から降りてきた姿。

運転席で前を見ていたあの横顔。

川沿いを歩く後ろ姿。


どれも特別な場面じゃない。


それをどうしてこんなにはっきりと覚えているんだろ。


  ――お前が俺を見すぎなんだよ


思い出して、耳が熱くなった。


あの人は冗談みたいに言った。


でも本当は、そのとおりだったのかもしれない。


さっき、


「ごめんなさい」って言ったとき、


頭の中に浮かんでいた顔がある。


椎名さんではなかった。


その名前を口にしたら、

もう戻れなくなってしまう気がした。


………。


スマホの画面を閉じる。


部屋がさっきより暗くなってた。


胸の奥が苦しくなってた。

明日、係長にはどんな顔して会えばいいんだろ。



◆第29話「好きなのかもしれない」、明日20時に更新します!

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