第26話「六月二十九日、山中のカフェ」
土曜日の朝。
今日は空が青い。
集合時間の20分も前に、駅前のロータリーに着いた。
結局私は来てしまった。
会社の最寄り駅で、休日に、係長を待っている。
白いワンピース。
玲さんが来たのはその5分後だった。
黄色いトップスにグレーのフレアミニ。
なんだろう、この人は。
脚が長い。
ウエストが細い。
ふわっとひらくスカートのラインがすごく似合ってる。
でも短い。
少しでも風が吹いたら…、と思うくらい、短い。
「しおりちゃん!」
玲さんが駆けてきた。
「そのワンピース、めちゃくちゃ似合ってるね。 モデルさんみたいだよ」
「そんなことないです」
「ほんとに。 なんでそんなにかわいいのー」
「玲さんこそ、すごくかわいいです」と言ったら、玲さんは「え!そうかな、そうかな」って笑った。
二人でそこに立って、係長を待った。
白くて大きなSUVが来たのは待ち合わせ時間の5分前。
窓が下がって、係長の声がした。
「悪い、遅くなった」
車から降りてきた。
黒のパンツに深緑のロンTで、スリムなシルエット。
………。
係長が私たちを見た。
一瞬、間があった。
……あれ?
耳が赤くなった?
「乗れ」
後部座席のドアを開けてくれた。
玲さんが先に乗り込んで、私もあとに続いた。
◆
車が動き出す。
助手席には黒い上着が畳んで置いてあった。
山に向かう道。
建物が減って、緑が増えて、空が広くなっていく。
玲さんが係長に話しかけた。
「係長って、ドライブよく行くんですか?」
「ときどきな」
「一人で?」
「そうだ」
「今日みたいに誰かと行くのとかは、あまりないんですか?」
「そうだな」
「じゃあ私たちって、特別じゃないですか?」
係長が少し黙った。
「……そうなるな」
玲さんが小さな声で「やった」と言った。
私には聞こえたけど、係長には聞こえていなかったと思う。
会話のたびに、玲さんが係長の言葉を引き出していく。
私はああいうふうに話しかけられない。
玲さんが顔を寄せてきた。
「ね、休日の係長って……、なんか、雰囲気違くない?」
私も小声で返した。
「……違いますね」
前の席で、係長が小さな音で音楽をかけた。
ミラーに係長の目が映っている。
前を向いて、運転をしている。
なぜかずっと、見てしまってた。
◆
山道に入ったあたりで係長が車を止めた。
「少し降りるか」
窓の向こうに赤いアーチの橋があった。
下に川が流れていて、水面がきらきらと光っている。
「行きます!」玲さんが即答した。
私もドアを開けた。
車を降りると、玲さんが係長の隣にすっと立った。
自然に。
係長の歩幅に合わせながら、少しずつ距離を詰めていく。
私は少し後ろを歩いた。
二人の後ろ姿が並んでいる。
背の差がある。
係長が少し、玲さんのために歩幅を小さくしているように見えた。
……胸のあたりが、ちくっとした。
川へ降りる細い道を歩いた。
草が茂っている。
小石を踏みながら河原に出ると、急に風が強くなった。
川が風の通り道になってるみたい。
草がざわざわと揺れる。
水音が大きくなった。
そのとき――
――ぶわっと
強い風が吹いた。
「きゃっ」
玲さんのグレーのスカートが一気にめくれ上がった。
白が、見えた。
係長はずっと川の方を向いている。
玲さんが必死に押さえるけど、また風が吹いた。
「やだっ、もう!」
また、白。
係長はずっと川を見ている。
玲さんのことを見ずに、じっと立っている。
でも耳が赤くなってた。
なんだか、かわいい、と思った。
私は玲さんの横に移動して、スカートを押さえようとした。
そしたら――
――風向きが変わった。
今度は風が、私の足元から、真上に向かって吹き上げた。
「きゃぁぁっ!」
玲さんのスカートが思いっきり裏返るのと同時に、私のワンピースも一気にめくれ上がった。
「っ」
手でどこを押さえればいいのかわからない。
「しおりちゃん!」
玲さんが私のワンピースを押さえてくれた。
自分のスカートはもう裏返ったままで、それでも私を先に助けてくれた。
「ごめんね。 一緒に大変なことになっちゃったね。 でも、ありがと」
玲さんが笑いながら言った。
係長はずっと川を見ていた。
コントみたいな数十秒だった。
◆
車に戻ると玲さんが
「恥ずかしかったー」と笑いながら後部座席に滑り込む。
係長が運転席に戻って、シートベルトを締めている。
玲さんが係長の顔を見た。
「係長、見ましたよね?」
「見てない」
玲さんが小さく笑うのが横目で見えた。
なんだか嬉しそうな笑い方。
係長は見ていないと言いながら、自分の膝あたりを見ていた。
まだ耳が少し赤い。
――見ていないと言いながら
また、かわいかった。
仕事場の係長には隙がない。
でも今日の係長は、隙だらけ。
いつもとのその落差が、どうしようもなくかわいかった。
玲さんが係長を好きになった理由の一つが、今、わかった気がした。
◆
カフェは山の中に突然現れた。
苔の生えた石畳。
古い木造の一軒家。
砂利敷きの駐車場に車を止めて、三人で入口に向かった。
玲さんが係長の右に並んだ。
私は二人の後ろを歩いた。
「あ」
玲さんが小さく声を上げた。
係長の肩に、何かいる。
……緑色の、大きなカマキリ。
「係長」
「なんだ」
「動かないでください」
「…………」
係長が止まった。
文字通り、止まって、動かなくなった。
「係長?」
「……肩か」
「はい」
「……取ってくれ」
声が小さい。
「虫、苦手なんですか?」
「早く」
玲さんが吹き出しそうになりながら近づいた。
「この子なにもしませんよ?」
「早く」
「係長、目、つむってません?」
「……見てないだけだ」
「同じです」
玲さんは笑いをこらえながらカマキリをつまんで、草むらに放した。
「もう大丈夫です」
係長はようやく息を吐いた。
私は笑ってしまった。
「係長にも苦手なの、あるんですね」
係長は私を見た。
「……ある」
その困った顔を見て、また笑ってしまった。
……ずるい。
こんな顔、見たことない。
◆
四人がけのテーブル。
玲さんが自然な動作で係長の隣に座った。
私は二人の向かいに座った。
正面から、係長の顔が見える。
「何にしますか、係長」
玲さんがメニューを広げながら、体を係長の方に向けた。
胸が、係長の腕に触れた。
係長がメニューを見たまま、少し動いた。
でも逃げ切れる距離ではない。
「コーヒー」
「ブラックですよね」
「そうだ」
玲さんが頷いた。
知ってますって言いたいのが、その顔に出てた。
メニューを一緒に見るふりをして、また体を寄せた。
「しおりちゃんは何にするの?」
玲さんに聞かれた。
「……チャイにします」
「おしゃれー」
係長がメニューから目を上げて、私を見た。
注文を済ませて、係長が窓の外の緑を見ながら、ぽつりと言った。
「ここは建物が景色の邪魔をしていないな」
玲さんがまた、係長の方に体を傾けた。
「どういう意味ですか」と聞いて、
係長が短く説明をする。
玲さんが頷きながら聞いている。
距離が近い。
「また次に、どこか行きたいところはありますか?」
「特にない」と係長が答えると、
「じゃあ私が調べます」と玲さんが笑ったとき、肩が触れた。
係長が固まった。
私はチャイを飲んだ。
甘くて、少し辛い。
外の緑が揺れている。
玲さんがこんなに積極的に動けるのは、玲さんが自分の気持ちを知っているからだと思った。
自分の気持ちを知っているから、動ける。
私は……、どうなんだろ。
◆
カフェから帰る前に玲さんがトイレに立った。
テーブルに係長と二人になった。
相変わらず外の緑が揺れている。
「来てよかったか」
係長が言った。
「……はい」
係長は窓の外を見ていた。
玲さんが戻ってきて、三人でカフェを出た。
◆
「係長、帰りは私、助手席に乗りますね。 係長が運転しながら寝てしまわないか、監視しときます」
玲さんが宣言した。
係長は「別に眠くない」って言ったけど、玲さんはもう助手席のドアを開けていた。
私は後部座席に一人で座った。
発車したらすぐに、玲さんが係長に話しかけた。
「今日、楽しかったです」
「また来ましょう」
「係長の行きつけのお店、今度教えてください」
声が弾んでいた。
今日一日中、張り切っていた玲さんの声。
少しして、言葉が減ってきた。
……。
静かになった。
助手席の玲さんが眠ったみたい。
シートに深く沈んで、頭が少し傾いている。
さっきまであんなに張り切っていた人が、今は完全に無防備だ。
係長がちらりと横を見て、玲さんの姿を確認した。
車が山を下りていく。
くねくねと細い山道が続く。
どのくらい黙っていたかわからない。
いつの間にかまた、私は係長の横顔を、見てしまってた。
「……玲さんのこと、好きなんですか?」
自分が言った言葉だった。
係長が少し、間を置いた。
「どうしてそう思う」
「……今日ずっと、顔が赤いです」
係長がまた、少し黙った。
「……お前が俺を見すぎなんだよ」
低くて小さかったけど、確かに聞こえた。
見すぎ?
……え? 見すぎ?
そう言われれば、確かに見てた。
車から降りてきた姿、ルームミラー、川岸を歩く後ろ姿。
カマキリで固まった、カフェでも。
今日一日、私はずっと、係長を見ていた。
………っ
係長は何も言わずに前を見ている。
――お前が俺を見すぎなんだよ
係長は、私が見ていたことを知っていた。
じゃあ係長が、
係長が赤くなっていたのは、私の――
「着いたぞ」
係長の声がした。
窓の外に、駅のロータリーが見えてきた。
玲さんが目を覚ました。
「あー! 寝ちゃった! さいあくー」と言って、暴れだした。
三人で車を降りた。
係長が「気をつけて帰れよ」と言った。
玲さんが改札に向かう。
私も改札に向かって歩き出した。
改札を通る前に振り返ると、
係長はまだそこにいた。
こっちを見てた。
……私は小さく手を振った。
◆第27話「風宮が一人前の設計士になること」、明日20時に更新します!




