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第25話「六月二十七日、それでいい」

六月二十七日、木曜日。

設計二課の神崎係長が、設計一課のフロアに来ていた。


馬平係長と資料を広げて何か打ち合わせをしている。

図面を指さしながら小声で言葉を交わす二人は、長年一緒に仕事をしてきた人同士らしくて、説明が少なくても話が通じているように見えた。


私はノートパソコンに向かいながら、気づくと何度も見てしまってた。

馬平係長は普段と変わらない表情なのに、神崎係長と話していると、わずかに肩の力が抜けているように見える。


打ち合わせが終わると、神崎係長は資料を抱えて立ち上がった。


 「そういえば……」


神崎係長が私を見た。


 「風宮さん、最近変わったわよね」


  ……え?


思わず耳を澄ましてしまった。


 「図面を見る顔。 前は『間違ってたらどうしよう』って顔だったけど、今は『ここまで考えました』って顔になってる。 最初とは別人みたい」


急に名前が出てきて驚いて、あっちを見ないようにした。


係長が答えた。



 「元々できる人間だ」



神崎係長が笑った。


 「ずいぶん評価が高いじゃない」


 「自信がなかっただけだ」


息が止まった。


神崎係長は笑いながら肩をすくめた。


 「……そういうところなのよ」


 「何がだ?」


 「さらっとそういうことを言うところ」


係長は意味がわからないという顔をした。


 「事実を言っただけだが」


神崎係長は苦笑する。


 「だから、その事実が人をきゅんとさせるのよ」


私は慌ててモニターを見た。

内容なんて、もう何も頭に入ってこない。


神崎係長は私に小さく手を振って、このフロアを後にした。


……私は慌ててその後を追いかけた。



廊下の窓の外には、梅雨らしい、重たい雲が広がっていた。


 「あの……」


神崎係長が足を止めた。


 「どうしたの?」


私は少しためらってから口を開いた。


 「私、馬平係長のことがよくわからなくなってきました」


その言葉に、神崎係長が小さく笑った。


 「そう思い始めたなら、もう馬平ワールドに入りかけてるわね」


 「え?」


 「それで、何が分からないの?」


馬平ワールド……?


 「あんなに仕事ができる人なのに、どうして私みたいな新人の指導係なんですか? もっと大きな仕事を任されていてもおかしくないと思うんです」


神崎係長はすぐには答えなかった。

窓の外に目を向けて、しばらく雨雲を眺めてから、穏やかに話し始めた。


 「新人の指導係って、会社が勝手に決めてると思う?」


 「……え」


 「違うわ。 係長級なら毎年、打診はあるの。 でも多くの人は断るの。 余計な仕事が増えるからって。 でも馬平君は断らない」


神崎係長はそのまま続けた。


 「昔ね、あの人、自分の仕事で人を不幸にしたと思い込んだことがあるの」


胸が痛くなった。

以前聞いた、あの話。


 「あれ以来かな。 若い子が困るのを、見ていられなくなったの」


神崎係長は苦笑した。


 「自分が前に出れば済むと思ったら、迷わず前に出ちゃうのよ。 損をするとか、評価されるとか、そういう計算をする人じゃないから」


返事ができなかった。

思い当たることばかりだったから。


神崎係長は私の表情を見て、ふっと笑った。


 「だから周りからは『損な人』って言われることもある。 でもね――」


目を細めた。


 「私はね、彼のそういうところ、好きよ」



その日の夜。

フロアには、係長と私の二人になってた。


窓を打つ雨音が、静かな室内に響いていた。


 ――若い子が困るのを、見ていられなくなったの

 ――損をするとか、評価されるとか、そういう計算をする人じゃないから


私は仕事をしている係長の横顔を見つめた。

こんな時間になっても図面を見る目は真剣で、赤ペンが紙の上をせわしなく動いている。


 「……係長」


係長がゆっくり顔を上げた。


 「どうして、そこまでするんですか?」


 「何をだ」


 「指導係のことです。 指導係を断れば、係長自身の仕事にもっと集中できますよね?」


……。


小さな間があった。

それから係長は、ごく自然な口調で答えた。


 「俺も昔、助けてもらったからな。 だからだろうな」


係長はもう図面に目を戻していた。


 「でも……」


気づけば口を開いていた。


 「それじゃ、損じゃないですか」


係長の赤ペンが止まった。


 「損?」


 「指導係を引き受けていたら、自分の仕事をする時間が減ってしまいますよね」


沈黙が流れた。

やがて係長が小さく笑った。


 「それなら、それでいい」


赤ペンがまた動き始めた。


 「育ってくれればそれでいい」


胸の奥が熱くなった。


この人は、誰かに評価されるために仕事をしているんじゃない。

それでいいと、本気で思ってる。


 「……係長って」


係長が私を見た。


 「損な人ですね」


 「そうか」


短く返事をして、また赤ペンを走らせた。


私はその横顔を見つめながら、ぽつりと呟いてしまった。


 「……そういうところ、私は好きです」


赤ペンが止まった。


…一秒。


……二秒。


静かなフロアに雨音が響いている。


やがて何事もなかったように、赤ペンが動きだした。

係長はもうそれ以上、何も言わなかった。



◆つづきの第26話「六月二十九日、山中のカフェ」は、本日の20時に更新します!!

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