第23話「六月十一日、係長のせい」
六月十一日、関東地方が梅雨入りした。
朝から空が灰色の分厚い雲に覆われていて、とても重い。
私は今日、係長と二人でお客様との打ち合わせに来ていた。
それは予定より少し早く終わって、建物の自動ドアを抜けたときだった。
――ぽつ。
頬に冷たいものが落ちた。
「あ……」
空を見上げるいとまもなく、二粒、三粒と雨粒が増えて、灰色だった雲が一気に雨を降らし始めた。
通行人が一斉に駆けだした。
駅へ向かっていた人も、信号を待っていた人も、みんな近くの軒先へ走っていった。
私は慌ててバッグを開いた。
いつも入れている折り畳み傘、
その感触を探してバッグの中を、ごそごそかき回した。
……ない。
そういえば昨晩、部屋で乾かして、そのままだった。
思わず立ち尽くした私の視界が、ふっと暗くなった。
……。
係長が傘を差してくれていた。
「傘、持ってたんですか」
「鞄に入れっぱなしにしている」
小さな黒い折り畳み傘。
二人の距離が自然と近くなった。
係長は私を濡らさないように傘を寄せて、自分の右肩は雨の中にはみ出していた。
雨粒が係長の肩を濡らしていく。
「係長、もっと入ってください」
「俺は濡れても大丈夫だ」
胸がちくりと痛くなった。
「……そういうこと、言わないでください」
係長の足が止まった。
雨音が二人の間を流れていく。
一瞬、困ったように眉が寄った。
そして、
「……行くぞ」
係長は照れ隠しみたいにそう言って、歩きだした。
何も言わないまま、また少し、傘をこちらに傾けてくれた。
私はそのことに気づかないふりをした。
雨は、まだ強くなっていく。
◆
雨脚がさらに勢いを増してきた。
二人で商店の軒先に駆け込んだ。
庇の下には、同じように雨宿りしている人が何人もいた。
私たちは壁際に残された、ほんのわずかな隙間に入る。
自然と、前後に並ぶ形になった。
係長のつま先が庇の外に出てしまってて、細かな雨粒が革靴を濡らしている。
「もう少し、こっちです」
私はそっと、係長の袖をつまんだ。
係長は何も言わずに、半歩だけ後ろに下がった。
その瞬間――
――むにゅっ
係長の背中が、胸の先端に触れた。
――んっ
息が止まった。
雨が降っている。
庇を叩く音がする。
水路に流れ込む水の音。
道路を走る車のタイヤの音。
世界中の音が聞こえているのに、自分の鼓動は、それよりもっと大きく響いていた。
係長は気づいたのか、前へ出ようとした。
「濡れちゃいます」
私はもう一度、袖をつまんだ。
係長はそれ以上、動かなかった。
胸に伝わる背中の体温。
雨で冷えた空気の中、そこだけとても温かい。
鼓動が速くなっていた。
この背中に伝わってるんじゃないかと思うくらい、速くなってた。
係長は何も言わず、前を向いたまま、黙って雨を見ていた。
私もその肩越しに、同じ景色を見た。
………。
雨はさっきより強くなってる。
◆
しばらくして、思った。
今なら言えるって思った。
「あの……」
係長が少し振り向いた。
胸の先が少し擦れた。
「プレゼンのこと、ありがとうございました」
声が震えないように、ゆっくり言葉を選んだ。
「あのとき、係長に『大丈夫だ』って言ってもらえなかったら……私、多分、最後まで立っていられませんでした」
庇を叩く雨音が小さくなった。
「係長の顔が見えたから、最後まで話せました」
――言えた。
係長は黙っていた。
この沈黙が、この人らしいって思った。
「……突然の雨も、悪くないですね」
係長の首が少し動いた。
「こうしていると、普段なら言えないことが言えますし」
目の前には雨。
流れる車。
灰色の街。
会社の中では言えなかった。
歩きながらでも言えなかった。
この距離で、この雨音があったから。
……。
係長の肩がちょっとだけ、揺れた。
◆
会社へ戻るころには、時計の針が午後の三時を回っていた。
雨はまだ降っている。
バッグを机に置いて、濡れた髪を軽く整えてからノートパソコンを開いた。
一通のメールが届いていた。
件名、
――コンペ結果について
メールを開くと、最初の一行ですぐに分かった。
――採用 椎名案。
私は小さく溜息をついた。
一週間、毎日毎日考えた。
何度も作り直して、係長にも見てもらった。
――お前の視点がちゃんと出てる
そう言ってもらえた案だった。
でも……
私は最後まで立てた。
人前に立つだけで息が詰まりそうになる私が、
たくさんの人の前で、最後まで自分の言葉で話し切ることができた。
苦しかった。
でも逃げなかった。
◆
しばらくすると、椎名さんが設計一課にやってきた。
エレベーターを降りると、今日も真っすぐ私に向かって歩いてきた。
「結果、見た? 僕の案が通ったねー」
いつもの爽やかな笑顔だ。
「おめでとうございます」
「ありがとう。 風宮さんの案もなかなか良かったよ。 また次がんばってな」
軽く手を振りながらそう言って、そのままエレベーターのほうに戻っていった。
私は、ふっと息を吐いた。
しばらくして――
「なんだ、嬉しそうだな」
係長の声がした。
思わず顔を上げると、係長は図面から目を離して私を見てた。
……嬉しそう?
そう言われて初めて自分の顔を意識した。
私の案は通らなかった。
でも不思議と落ち込んでいなくて、それどころか、なんだか満たされたみたいな気持ちになってた。
「……係長のせいです」
係長の目が少し大きくなった。
「俺の?」
「苦手だったプレゼンを、最後までやり切れました。 そっちのほうが……、私には嬉しいみたいです」
照れくさくなって笑った。
………。
係長は何も言わなかった。
やがてペンを取って、図面を見た。
「……そうか」
係長はもう一度、私を見た。
私はモニターを見て、別のメールもチェックした。
窓の外ではまだ雨が降り続いていて、空が重い。
朝は重たく感じたその空が、今はなんだか軽く思えた。
空は朝から変わっていない。
変わったのはたぶん、私のほうだ。
◆第24話「六月二十四日、カフェなら」、本日20時に更新します!




