第22話「六月七日、見つけられなかった」
プレゼンが終わってフロアに戻った。
係長の席は、空だった。
……まだ戻ってない
自分の席に座って、ノートパソコンを開いた。
仕事をしようとした。
でも手に着かない。
係長にお礼が言いたい。
――大丈夫。 風宮なら、できる
あの言葉がなかったら、今日のプレゼンは全然違う結果になっていた。
ちゃんと伝えたかった。
………
でも本当は、それだけじゃない。
……褒めてほしい
係長に、よくやったなって、言ってほしい。
自分でも驚くぐらい、こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。
係長の席を、また見た。
モニターを見て、係長の席を見て、またモニターを見た……
◆
あ。
十八時になったとき、係長がフロアに戻ってきた。
静かに書類を置いて席に着いた。
今だっ。
立ち上がろうとした、そのとき――
――フロアの入り口に人影が見えた。
椎名さんだ。
新入社員を数人引き連れて、まっすぐこっちに歩いてきた。
「お疲れさまー。 プレゼン、みんなよく頑張ったよね。 ちょうど金曜日だし、打ち上げ、風宮さんも一緒に飲みに行こうよ」
爽やかな声だった。
「今日はちょっと……」
断ろうとしたとき、視界の端で係長が動いた。
上着を取った。
帰り支度だ。
胸がざわついた。
今日も、先週と同じように、定時で帰るんだ。
「予定って、何かあるの? 軽く一杯だけでも、ね」
椎名さんが引かなかった。
爽やかな笑顔のまま、もう一歩近づいてきた。
「本当に、ちょっと用があって……」
また係長の方を見た。
もう鞄を持っている。
立ち上がろうとしている。
早く断らないと。
「でも、プレゼン終わったんだから、たまには羽を伸ばしてもいいんじゃない? 風宮さんもよく頑張ってたし、俺、見てたよ。 すごくよかった」
聞こえのいい言葉だけど今はそんな言葉なんて全然耳に入ってこない。
係長が立ち上がった。
「すみません、本当に、無理なんです!」
今度こそはっきり言った。
椎名さんが「そうかー、残念だなー」と言って、やっと引き下がった。
私はすぐに係長の席を見た。
――空だ。 いない。
「すみません、お先に失礼します」
私は誰にともなく声をかけて、廊下に飛び出した。
――もう係長の姿はなかった。
エレベーターホールに走った。
エレベーターの扉がちょうど閉まるところだった。
中に人影が見えた。
――扉が閉まった。
係長が乗っていたかどうかは、確認できなかったけど。
次のエレベーターを待ってられなくて、非常階段に駆け込んだ。
ヒールのあるパンプスで、一段とばしで駆け降りた。
一階のロビーに飛び出したとき、エントランスの自動ドアが閉まるところだった。
急いで外に出る。
……夕方のビル街に、たくさんの人が流れていた
係長……
馬平係長の姿を探した。
濃紺のスーツに黒い鞄。
たくさんいる。
でも係長じゃない。
ビルの横の、路地を見た。
……誰もいない
路地の入り口に立ったまま、しばらく動けなくなった。
息が切れていた。
夕風が前から吹いてきて、髪が少し乱れた。
昼休みにここで……
隣に座って、
震える私に温もりをくれたんだ
……言えなかった。
ありがとうございましたが、言えなかった。
◆
プレゼンを最後までできたことだけで十分だったはずなのに……
帰り道、頭の中で、ぐるぐるしてる。
……褒めてほしい
子どもみたい。
でも係長には、よくやったって言ってほしい。
………。
係長の言葉がなかったらあそこに立ててなかった。
係長の目がなかったら、声なんて出なかった。
係長がうなずいてくれなかったら、最後まで話せなかった。
……全部、係長。
だからせめてそのことだけでも伝えたかった。
ありがとうございました。
感謝の気持ち。
駅のトイレで顔を見た。
真っ赤だった。
◆
次の日の土曜日のお昼過ぎ。
また美術館に行った。
先週と同じ道を歩いて、先週と同じ入り口を通って、先週と同じカフェに来た。
先週と同じものを頼んで、先週と同じ席に座る。
勝手に足が、ここに向いた。
カフェモカをひと口飲んで、入り口を見る。
……来るかもしれない
毎週来ているのかどうかは知らない。
でももしかしたら――
ウィーーン
入り口の自動ドアが開いた。
顔を上げた。
……知らない人だった
開いた。
また顔を上げた。
………また違った。
先週は、ここにいた。
わかってる。
係長には係長の休日がある。
私の知らない係長がいる。
全部わかってる。
それでもドアが開くたびに顔を上げてしまう。
………。
気づいたら三時間が経っていた。
係長は来なかった。
もう一杯だけモカを頼んで、また外を見た。
空が少し色を変えていた。
………。
席を立って、一階に降りた。
先週係長が座っていたテーブルの横を通り過ぎる。
今日は別の人が座っている。
当たり前のこと。
そのままカフェを出た。
……どうしてこんなにがっかりしてるんだろ
絶対なんて思ってなかったのに、来てくれなくて、がっかりしてる。
………。
週明けにプレゼンの結果が出る。
そのときにはちゃんと言おう。
ありがとうございました、って。
マンションに向かって歩きだした。
夕方の風が、後ろからそっと吹いた。
◆第23話「六月11日、係長のせい」は、明日7月11日(土)の、午前11時に更新します!!




