表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/29

第20話「六月一日、知らない時間」

土曜日で、特になにも予定がなかった。


洗濯を終えて昼過ぎに家を出た。

どこに行くとも決めずに、マンションの周りをぶらぶらと歩いてみた。


この街に越してきて2か月で、今日初めて歩く道。


しばらく歩いていたら、こんな場所にと思うような静かな通りに美術館があった。

今っぽくて背の高い建物だ。


中を見ると、入口のすぐ横に、併設されたカフェもある。


 カランカラン


入口の木の扉から入ってみると、外から見ていたよりも中はずっと広かった。

吹き抜けになっていて、2フロアにまたがった構造。

一階には丸いテーブルの席が並んでいて、二階には壁に沿って細長いカウンター席が並んでいた。


私は二階の席に座った。

ホットのカフェモカを頼んで、外を見た。


五月の青い空と住宅街、遠くに低い山の稜線が見えた。

久しぶりに、何も考えない時間を過ごせそうな気がした。



しばらく外を見ながらモカを飲んでいると、近くのテーブルがざわついた。


ひそひそと、でも明らかに興奮している声がした。


二人の女性。

私と同じ、二十代の前半くらいだろうか。

片方が「もうすぐ来る…っ」と言って、もう片方が「勇気出しな、行けるって」と言っている。


決まった時間に来る常連さんに、告白でもするのかな。

それくらいに思いながら、ぼんやり外を眺めていた。


 カランカラン


カフェの入口が開いたとたん、二人の声が高くなった。


「来た来た」と片方が言う。


なんとなく入り口を見たら、


ひとりの男性が入ってきた――


  ―――えっ


胸が跳ねた。


係長っ


馬平係長が、入ってきた。


週末のカジュアルな服装。

シンプルな濃紺のポロシャツに、落ち着いた黒のパンツ。


係長はカウンターに向かって、何かを頼んだ。

きっとブラックコーヒーだ。

受け取ると、一階のテーブル席に座って、鞄からペンとスケッチブックを取り出した。


窓の外を少し見て、ペンを走らせる。

また外を見て、また走らせる。

一口飲んで、また続けた。


………。


休日の係長がそこにいた。


私は二階からその姿を見ている。


休日の係長。

今は馬平さん、かな。


馬平さん。



 「ほら、ほら」


近くで、また声がした。


 「行く?」


 「……行く」


ひそひそ話をしていた二人の女性が立ち上がって、係長のテーブルに近づいた。


片方の女性が係長に話しかけた。

何を言ったかは聞こえないけど、顔が真っ赤になっている。

係長がちらりと顔を上げた。

一瞬、その女性を見て、すぐにスケッチブックに視線を戻した。

ペンを動かしながら、ひとことふたこと返してる。


二人が係長の隣の席に座ろうとした。


……うそ。


……。


係長は追い払うわけでもなく、ただスケッチを続けていた。

たまに顔を上げて、短く何か言ってる。

二人の女性はとても嬉しそうで楽しそう。

片方が身を乗り出してスケッチブックを覗き込んだ。


 ……近すぎ


私はカップを手に持ったまま、飲むのを忘れてた。


 ……係長って、モテるんだ


そういえば、イケメンじゃないけどあの雰囲気だ。


今までそういうことはあまり考えなかった。

事務所の中で、係長は係長で、私の指導係で、それ以外の何でもないはずだから。


でもここには、事務所も図面も何もない。

ただ、一人の大人の男性が、休日の昼間にカフェでスケッチをしている。


しばらく話したあと、片方の女性がバッグから何かを差し出した。

小さく折りたたんだかわいい紙。


係長がちらりと見た。

一瞬止まって受け取った。


 ……連絡先だ


係長が受け取ると、二人はきゃっきゃと言いながら出ていった。

振り返って小さく手を振った女性に、係長は視線だけを送った。



二人が出ていって、カフェの中が静かになった。


係長は紙をテーブルに置いたまま、もうスケッチに戻っていた。

何もなかったような顔。


……。


帰ろう。


階段の端から、静かに降りた。

係長の後ろを、気づかれないように、足音を忍ばせて通り過ぎようとした。


………。


よし、通り過ぎた――


 ――と思った瞬間、


 「風宮もよく来るのか」


真後ろから、声がした。


止まってしまった。

振り返ったら、係長はスケッチブックを見たまんま。


 ……どうしよう


………。


逃げようと思った。

でも私はそのまま椅子を引いてた。

自分でもなぜそうしたのかはわからない。


 「そ、その……」


係長がようやく私を見た。


 「あの……、今、ナンパ……されてましたよね」


係長が首をかしげた。


 「ナンパ?」


 「だって、今、女の子二人が……。 その紙、連絡先ですよね」


係長が、テーブルの端に置かれた紙を見た。



 「宗教か何かの勧誘だろ」



 「……え」


 「最近多いんだ。 こういう場所で声をかけてくる人間が」


係長はまたスケッチブックに視線を落とした。


係長の顔を見た。

真剣な顔でペンを走らせている。


 ………この人、本気で言ってるんだ


あんなに二人がどきどきしながら近づいていったのに。

真っ赤になりながら勇気を振り絞って連絡先まで渡したのに。


係長には、宗教の勧誘にしか見えてなかったんだ……


吹き出しそうになった。

本当にこの人は何も気づいてない。

私はコーヒーカップで口元を隠した。


 「……スケッチ、よくするんですか?」


笑いをこらえながら、聞いてみた。


 「休日は大体する」


 「設計の練習ですか?」


 「いや」


係長がスケッチブックを私に見せた。


窓の外の街並みが、細い線で描かれていた。

建物の輪郭だけじゃなくて、光の当たり方とか影の落ち方とかそういうのまで全部、線だけで表現されていた。



 「好きだから」



係長が言った。

そうだ。この人は、そういう人だった。


 ――好きだから


しばらく黙っていた。

係長はスケッチを続けていて、私はそんな係長を見てる。


モカをひとくち飲んだ。

もうすっかり冷めていた。

でもさっきよりずっと、甘くておいしい。



◆第21話「六月三日、風宮なら、できる」、明日20時に更新します!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ