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第19話「五月二十四日、怖がっている」

五月二十四日、金曜日。

お昼休み、トイレの帰りに廊下で声をかけられた。


 「風宮さん、少しいい?」


神崎係長だ。

設計二課の係長。

先月ロール紙の箱を運んで以来、廊下で見かけるたびに声をかけてくれるようになっていた。


だけど今日の神崎係長は、なんだか少し雰囲気が違っている。

廊下の窓際に並んで立って、二人で青空を見上げた。


 「風宮さん、馬平君のこと、どう思ってる?」


唐突だった。


 「……丁寧に指導してくださる方です」


 「ふーん」


神崎係長が、くすっと笑った。


 「何か……、おかしいですか」


 「ううん、おかしくない」


神崎係長は窓の外を見た。

そして、話し始めた。


 「馬平君がね、初めて主担当で設計したお店があるの。 洋服のセレクトショップ。 オーナーさんがね、馬平君のことをすごく気に入って、ぜひ頼みたいって言ってきたの。 馬平君も、その気持ちに応えようと思ったんだと思う」


ふっと、息を吐いた。


 「まだ若かったのに、そのときからもう圧倒的だった。 設計もオーナーさんとの打ち合わせも、現場との調整も、全部ね」


もう一度、空を見た。


 「でもね、そのお店、半年で閉まっちゃったの」


 「……え」


 「取り扱っていた商品が独特すぎてね、お客さんが入らなかったの。 設計は関係なかった。 周りは全員そう思ってたし、オーナーさんもそう言ってた」


神崎係長が、私を見た。


 「でも馬平君だけね、自分の設計が悪かったって。 自分のデザインが客を遠ざけたんだって、ずっとそう思い続けたの」


何も言えなかった。


 「オーナーさんのところにね、何度も謝りに行ったんだって。 そのたびにオーナーさんは、君のせいじゃないって言い続けた。 でも馬平君はかたくなに、その言葉を受け取らなかった」


窓の外を、雲が一つ、ゆっくりと流れていった。


 「そのオーナーさん、今は別の事業で成功してるのよ。 全然関係なかったってことは、結果が証明してる。 でも馬平君はたぶん、今でも……」


神崎係長の言葉が一瞬、止まった。


 「……今でも、あのお店のことを忘れていないと思う」


神崎係長がまた窓の外を見た。


 「彼ね、怖いんだよ。 ずっと」


 「……何が、怖いんですか」


 「自分の実力が足りないせいで、仕事を頼んでくれた人の人生を壊してしまうっていうことが」


胸の奥が苦しくなった。


 「だからあんなに必死なの。 誰よりも早く来て、コンビニのおにぎりだけで何時間も働いて、それでもまだ足りないって思ってる。 圧倒的に見えるでしょ? でも彼の中では、まだまだ全然足りないの。 ずっとそう思い続けてる」


お客様の前でのあの表現力も、図面を睨んでいるときの集中力も、現場で見せるあの判断力も。


あんなに圧倒的なのに。

それでも毎日もっともっとって努力してる。

あの人は怖いと思いながら、ずっと仕事をしてるんだ……


 「……知りませんでした」


声が震えていた。


 「知らなくて当然よ。 彼、絶対に言わないから」


そう言って、神崎係長は少し笑った。


 「さっき指導の方、って言ったけどね」


 「……はい」



 「その人のこと、しっかり見ててあげてね」



そう言って、神崎係長は廊下を歩いていった。

颯爽とした後ろ姿が、角を曲がって、消えた。


………。


廊下に一人、残された。

窓の外の青空がさっきより眩しく感じる。

私はしばらく動けなかった。


 ――見ててあげてね


どういう意味なんだろ。

あの人は誰よりも強くて、誰よりも本気で、誰よりも長く戦ってきた。


なのに……


フロアに戻ったら、係長が席にいた。

図面を見ている。

いつも通りの落ち着いた横顔。


 この人は今もずっと、怖いんだ……。


胸の中が、ぎゅってなった。



18時になるとすぐに係長が帰っていった。

定時に帰る係長は珍しい。

「お疲れ」と言ってフロアを出ていく後ろ姿を、私と玲さんは黙って見送った。


玲さんが残念そうな顔をしたけど、すぐに切り替えて、私を見た。


 「しおりちゃん、今からご飯行かない? 施工図がんばったお祝い」


 「行きます」


 「ちょっと行ったところに今日オープンするバーがあるんだー。 Ao no Yugasumiってお店。なんかいいでしょ? 行ってみたかったんだー」


そのお店は駅から少し歩いたビルの地下にあった。


扉を開けた瞬間、息を呑んだ――


暗い。

暗いけど、温かい。

間接照明が、カウンターの木目と壁のタイルを柔らかく照らしている。

地下とは思えないくらい天井が高くて、空間に余白がある。

たくさん人がいるのに気配がしない。

音楽が小さく流れていて、うるさくなくて、静かすぎずに、ちょうどいい。



 「……すごい」



玲さんが、小声で言った。

私も、同じことを思っていた。


案内された席は、L字型のテーブル席だった。

メニューを開いて、パスタとグラスワインを頼んだ。


 「今日は係長が迎えに来てくれませんから、気をつけてくださいね」


玲さんが笑った。


パスタが来て、しばらく食べていたら、玲さんが話始めた。


 「ねえ、係長と客先訪問、行ったでしょ? しおりちゃん、隣にいたよね」


 「はい」


 「信じられなくない? あの人、事務所ではあんなに無口で無表情なのに、クライアントを前にしたら、急にめちゃくちゃコミュ力高くなるじゃん? 笑顔を見せるし会話のテンポも完璧だし、相手をどんどん惹き込んでくし」


玲さんの目がきらきらしていた。

いつもより少し声が大きい。


 「わかります、めちゃくちゃわかります」


私の声も、ちょっとだけ大きくなった。


 「でしょ! あのギャップ、反則だよね。 事務所での顔しか知らなかったら、まじで別人かと思う」


玲さんがグラスを置いて、前のめりになった。


 「でもさ、しおりちゃん気づいてる? 係長、事務所では無表情に見えて、ほんっとにたまにね、表情が出るときあるんだよ」


 「……出ます、出ます」


 「でしょ! ほんのちょっとだけ口元が緩んだり、耳がちょっとだけ赤くなったり。 あれ気づいちゃったら、もう終わりなんだよね」


玲さんが、グラスを両手で包みながら、遠くを見た。


 「あんなに無表情なのに、急にあんなに圧倒的になって。 なのにほんのちょっとだけ崩れる瞬間があって。 ちょっと照れた顔をしたとき、もう、かわいくてかわいくて……、抱きしめたくなるんだよ」


 「……わかります」


気づいたら、口から出てた。

玲さんが、ぱっとこちらを見た。


 「わかる?!」


 「……はい」


……思い出してしまった。


 「どんなときに気づいたの?」


玲さんがもっと身を乗り出してきた。


 「……ちょ、ちょっと当たっちゃったときに、耳が赤くなってたときがあって」


 「そう! 耳! 私も見たことある! あれ気づいた瞬間、心臓止まりそうになるよね」


 「なります」


二人でしばらく笑ってた。



グラスをもう一杯頼んで、ちょっとしてから、玲さんが声を小さくした。


 「……しおりちゃん、私ね、家に帰っても係長のこと、考えちゃうんだよね」


 「……」


 「お風呂に入ってるときも、ベッドで横になってるときも」


 「………」


玲さんが、グラスを見つめながら、小さな声で言った。


 「そしてね、係長のこと考えてると眠れなくなってね、しちゃうんだ……」


 「……わかります」


気づいたら、うなずいてた。


玲さんが驚いた顔で私を見た。


 「……しおりちゃん?」


 「あ、ち、違、あの、そういう意味じゃ……!」


玲さんが、しばらく私の顔を見ていた。

そして、ふっと、微笑んだ。


 「ちょっとトイレ行ってくるね」


それだけ言って、玲さんは席を立った。


一人になった。

顔が熱くなってた。


……どうしてうなずいてしまったんだろ。


お腹の奥も、熱くなってる。


顔を両手で覆いたかった。

でもそんなことしてたら変に目立つと思って我慢した。


………。


ふと、玲さんが座っていた席の後ろに目がいった。


人がいる。

向こうを向いて、座ってる。


――っ!


その背中を見た瞬間、全身の血が一気に下がった。


とてもよく知っている背中。

係長だ。


……。


まさか、違うよね。

違ってて……。


…。


グラスを持つ手に巻かれた腕時計。

やっぱり、係長だ。


馬平係長がグラスを持って、一人でそこに座っている。


うそ……

いつから?

どこまで聞こえてた?


頭が、真っ白になった。


 ――聞かれてた?


そればかりが頭の中をぐるぐる回る。


玲さんが戻ってきた。


 「トイレ、すっごい綺麗だったよ。 しおりちゃんもすっきりしてきたら?」


にこにこしながら言った。

全然、気づいてない。


私は急いで鞄を掴んだ。


 「あのっ、出ましょう!」


 「え、急に?」


 「すみません、ちょっと……!」


席を立って、まっすぐ出口に向かった。

振り返られる前に出ないと!


扉を開けて外に出た。


冷たい夜の空気が頬に当たる。


 聞こえてたのか。

 聞こえてなかったのか。


それも怖かった。


 どうして係長があの店に…。

 定時で帰った係長が、どうして一人であの場所に……。


それもわからなかった。

わからないまま、駅に向かって走ってた。



◆第20話「六月一日、知らない時間」、明日20時に更新します!

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