第18話「五月十八日、近い」
五月の第三週の、金曜日。
出勤したら係長がもう席に座っていた。
いつもなら席にペンとメモ帳が置いてあるだけで、そこにはいない。
9時前になると、資料とノートパソコンを持ってこのフロアに現れる。
今日は違った。
係長がもう座っていて、机の上に、昨日の施工図が広げられていた。
昨日、私たちが終わらせられなかった、残りの図面。
「おはようございます」
「風宮、おはよう」
係長は一瞬顔を上げて、すぐに図面に目を戻した。
赤ペンが素早く動いている。
まだ7時半だ。
係長は何時から来てるんだろ。
私は荷物を置いて、ノートパソコンを開いた。
玲さんが来たのは、8時を過ぎたころだった。
「おはようございます。……もう来てたんですか、係長」
「ああ、おはよう」
係長がペンを置いて、残りの図面を全部重ねて整えた。
そして玲さんの昨日のチェック分を手に取った。
「山本、よく見れてる」
玲さんが、ぱっと顔を上げた。
「……本当ですか」
「ああ。 ここまで見れれば十分だ」
係長はそう言うと、今度は私のチェック分を手に取った。
少し間があって、
「風宮は、施工図の読み方をまだわかっていない」
「……はい」
そのとおりだ。
昨日、施工図を見ながら、設計図とどう違うのかを見比べていた。
印刷された黒い線と、係長がペンを入れた赤い線。
違うのはわかる。
でもどちらが正しいのか、他に何を見ればいいのか、何もわかっていなかった。
「あとで俺が教えてやる」
◆
9時ちょうどになって、係長が立ち上がった。
ゆっくりと近づいてきて、隣の椅子を引いた。
「始めるぞ」
椅子をまたぎながら、施工図を一枚、私の前に広げた。
………っ。
近い。
係長がこんなに近くに座るのは、初めてだ。
肩と肩の距離が、こぶし一つ分もないかもしれない。
「設計図は完成形だ。施工図はそれを組み立てるための手順書だ。 ポイントが違う。 まずここを見ろ」
「……はい」
係長が図面の一部を指で示した。
ちょん……
大きな図面を指でなぞるため、係長が身を乗り出した。
肩が触れて、顔が私の顔のすぐ横に来た。
「設計図で役所に許可をもらっている。だから基本的に、設計図が正しい」
「………い」
声が出なかった。
「施工図のこの数字と、設計図のこの数字が対応している。 わかるか」
「……は、はい」
今度はなんとか出た。
係長の声が、すぐそこに聞こえる。
耳に息がかかりそうな距離で。
低くて、よく響く声が、私の鼓膜を揺らしてる。
図面を見ないといけない。
係長の説明を聞かないといけない。
でも……
……近すぎる。
それしか考えられない。
「この壁の厚みが、設計図では200ミリになってる。施工図ではどうなってる」
「……え、あ、えっと」
係長が、私を見た。
今度はこんな距離で、目が合った。
息が止まりそうになった。
「施工図を見ろ」
「………っ」
慌てて深呼吸をして、机の上の施工図に、目を戻した。
「……ひゃ、ひゃくはちじゅう、ミリ、です」
「そうだ。この20ミリの差はな……」
係長がまた図面を指でなぞる。
また、顔が近づいた。
………っ。
今度は肩が、くっついた。
そんなことばかり気になって、説明が耳には入ってくるんだけど、ぜんぜん頭に入ってこない。
係長は気づいてない。
大きな図面を指さそうとして、自然にそうなってるだけ。
心臓が、どくどく跳ねてる。
肩から、耳から、じわじわと熱が広がってる。
「風宮、聞いてるか」
「……っ、聞いてます」
どくどく、どくどく。
心臓がうるさい。
係長に聞こえてるんじゃないかと思うくらい。
係長の説明は続いている。
施工の誤差、現場での調整。
設計図と施工図のずれをどう読むか。
それでも私は係長の声を聞きながら、図面を見ながら、必死に集中した。
せっかくこれだけ丁寧に教えてくれてるんだから。
上の空ではいられない。
係長は隣に座ったまま、ひとつひとつ、丁寧に教えてくれた。
私は何度も図面に意識を引き戻した。
………。
……………。
あ……。
そういうことか。
……。
「この寸法。 ここは500ミリが正なんですね」
「……そうだ。 見えたな」
係長が嬉しそうな顔をした。
私はもう一度、施工図に目を落とした。
さっきまでただの線の集まりだったのに、今はもう違って見える。
行ったこともないこの土地に、この施工図の中の建物が、頭の中で完成していた。
◆
11時の少し前に、全ての図面のチェックが終わった。
課長が設計三課に連絡を入れると、しばらくして、椎名さんがやって来た。
椎名さんは図面を受け取ると、すぐにめくり始めた。
「これ、この寸法のどこがおかしいんですか」
係長が立ち上がって、図面を覗き込んだ。
「設計図通りの寸法だと、その壁は、隣の部屋の壁と干渉する。 現実には成り立たない」
「……これは」
「設備との整合が取れていない。 配管が壁を貫通する位置がずれている」
椎名さんが、また別の箇所を指した。
どれだけ椎名さんの質問が続いても、係長は図面を見ながらすぐに答えた。
まるで図面の全てが頭の中に入っているみたい。
どこに何の問題があるか、なぜそれが問題なのか、全部、澱みなく出てきてた。
椎名さんは少しずつ、黙っていった。
最後の一箇所を係長が説明し終えたとき、椎名さんは呆然としていた。
「……わかりました」
不本意そうだったけど、椎名さんはそう言って、施工図を抱えて出ていった。
しばらくすると、設計三課の課長がやって来た。
五十代くらいで、がっちりした体格の人だった。
「馬平係長、このたびは本当に助かった。 実は期限について、少し安全を見て早めに伝えてしまっていて……本来は今日中であれば問題なかったんだ。 君たちを見くびっていた。 申し訳ない」
係長は「いえ」とだけ言った。
「それにしても、あの量をこの短時間でここまで完璧にチェックできるとはな。 正直、驚いたよ」
係長は私たちを見て、
「山本と風宮、この二人がよくがんばりました。 おかげさまで二人とも、今回のことで一段階も二段階も上がりました」
設計三課の課長も玲さんと私を見た。
「そうか。 ここはいい人材が育っているんだな」
課長は笑って、フロアを出ていった。
私は係長を見つめたまま、動けなくなっていた。
――この二人がよくがんばりました
係長は、自分のことなんて一度も口にしなかった。
玲さんが、ちらりと私を見た。
目が真っ赤になってた。
係長はもう別の図面に向かっている。
この人の背中を、私はずっと見ていたいと思った。
◆第19話「五月二十四日、怖がっている」、明日20時に更新します!




