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第16話「五月八日、知らない顔」

五月の第二週、水曜日の午後。

馬平係長と二人で、お客様のお店に向かった。

ある和菓子屋さんが隣県に新店舗を建てたいとのことだった。


私にとって、初めての客先訪問。


電車の中で係長が言った。


 「今日の目的は相手の要望を聞きながら、予算と設計条件に合う落としどころを見つけることだ。 どういう会話になるか、よく聞いておけ」


 「はい」


係長はそれ以上何も言わず、窓の外を見ている。


 ……落としどころを、見つける。


相手の要望とこちらの条件を、どこかで折り合わせる。

言葉にすると簡単そうだけど、実際にどうやるのか、私には全く想像がつかなかった。



訪問先の和菓子屋さんは、立派な老舗って感じがした。


暖簾をくぐって店内に入ると、品のいい香りがした。

ショーケースには、季節の生菓子が丁寧に並んでいる。

奥の壁に創業百二十年と書かれた木の板が掛けられていた。


レジのお姉さんに案内された応接室に入ると、二人の男性が待っていた。


営業担当らしき四十代くらいの男性と、若い社長だった。

若い社長は三十歳前後だろうか。

清潔感のある顔立ちだけど、老舗の後継ぎとして厳しく育てられてきたのか、どこかぎらついたような雰囲気を感じた。


私たちが挨拶をすると、二人の視線が、私に来た。

係長に、ではなく。


営業担当の男性が、咳ばらいをひとつして、もう一度私を見た。

若い社長が、私に目を固定したまま椅子を引いた。


またこの視線。

いつもならもう慣れているけど、この初めての場面では、かなりきつい。


係長はそういうことには一切頓着せず、名刺を出して、席についた。


 「本日はお忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます。 さっそくですが、まず現在のご要望を改めてお聞かせいただけますか」


係長が流れるように切り出した。

私は隣に座ってノートを開いて、ペンを持った。


………。


その後、二時間、私はほとんど口を開かなかった。

いや、開けなかった。


それは――


  ――係長が、全く別人だったから。



若い社長が図面を指さして言った。


 「この壁を全部ガラス張りにできないかな」


係長が社長を見た。


 「理由をお伺いしてもよろしいですか?」


 「ここを全部ガラスにすると、外からでも工場の中が見えるんです。 うちは職人が売りなんです。 職人が丹精込めて作っているところを見せたいんだ」


 「なるほど」


係長はしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。


 「この土地は西日が強いので、全面をガラス張りにすると直射日光がかなり入ってきますね。 工場内が相当暑くなってしまいます」


社長の表情が少し曇った。


 「でも見せたいんだよ」


 「はい、その思いはとても素晴らしいと思います」


社長が話し終えるまで待っていた係長は、否定もしなかった。


 「では、お客様に見せる場所を作りませんか?」


社長が顔を上げた。


 「見せる場所?」


 「和菓子を作る工程の中で、お客様が見たいと思うところ、社長が一番見せたいと思うところを絞って、ガラス越しに見えるようにするんです。 他は壁にして、直射日光から守るんです。 職人さんもお客様もそこに集中できますし、建設費も空調の電気代もかなり抑えられます」


 「なるほど……」


社長はもう一度図面を見た。


 「全部を見せるより、一番見てほしいところだけを見せたほうが、お客様の印象にも残ります」


社長が営業担当を見ると、営業担当がうなずいていた。


 「社長、それなら予算内にも収まりそうです」


社長は係長を見て笑った。


 「それでお願いします」



いつもの口数が少なくて表情がなくて、短い言葉しか使わない係長は、どこにもいなかった。


相手の話をよく聞いて、うなずいて、適切なところで笑顔を交えながら、自分の言葉で返していく。

会話のテンポが自然で、相手が言いたいことを引き出すのが、とんでもなくうまい。

相手が「そうなんです、それなんです」と身を乗り出す瞬間が、何度もあった。


最初は私の方ばかり見ていた営業担当の男性が、気づいたら係長の話に前のめりになっていた。

若い社長も前のめりになって、高そうな手帳にメモを取りながら、係長の言葉を真剣に聞いていた。


私は自分のメモを取りながら、何度も係長の横顔を見た。

いつの間にか、見惚れてた。


 この人、こんな顔をするんだ。

 こんな声の出し方をするんだ。

 こんなふうに目じりを下げて笑うんだ。


いつも事務所で見ている係長と同じ人とは思えなかった。


………。


そして気づいたら、打ち合わせが終わってた。


次回までに検討してほしい事項を、係長が簡潔に伝えた。

営業担当の男性が「わかりました」と言って、若い社長もうなずいた。

二人とも、最初とは全然違う顔をしていた。


気づけば打ち合わせは、落としどころに着地してた。


どこでどうやって、この人は話をそこに持っていったんだろう。

メモを見返したけど、その瞬間がどこだったのか、わからなかった。



帰り道、駅に向かって歩きながら、係長の隣を歩いていた。

五月の風が、今日は冷たかった。


商店街の途中にあった自動販売機の横で、係長が足を止めた。


 「甘いのと、ブラック、どっちが好きだ」


 「……甘いの、です」


係長はそれだけ聞いて、出てきた缶を取って、私に渡してくれた。

自分のブラックも取ると、また歩き始めた。


 「ありがとうございます」


缶が温かかったから、歩きながら缶を両手で包んだ。


 「係長って」


 「ん?」


 「あんなに会話が上手なんですね」


 「……」


係長は前を向いたまま、少し間を置いた。


 「仕事だからな」


 「仕事だから、できるんですか?」



 「心配するな。 風宮も、そのうちなる」



 ――そのうちなる


係長は断言した。

私もいつか、そうなれるって。

それがなんだか嬉しくて、嬉しすぎて、言ってしまった。


 「どうして、いつもはああいう笑顔を見せてくれないんですか?」


少し踏み込みすぎた、と思った。


 「………」


係長がわずかに困った顔をした。


……困った顔に、どきっとした。



 「……必要なときには、する」



もういつもの口数少ない姿に戻ってて、その答えがなんだかとても係長らしく思えた。

私はまた前を向いて、缶を両手で包んだまま歩いた。



事務所に戻って、打ち合わせのメモをノートパソコンで清書した。

思い出しながらキーボードを打っていると、目の奥に打ち合わせの光景が溢れてきた。


あんなにすごい人だったんだ。

あんなに人を惹きつけて、一瞬でその場を持っていく。

誰も嫌な思いをしないで、打ち合わせが終わったときには、その場の誰もが満足している。


この人は、もう二十年近く、この熱量で仕事をしてきた人なんだ。


神崎係長が言っていた言葉を、思い出した。



 ――彼は、本物だから



あの時はなんとなく、そうなんだ、と思っただけだったけど、今日初めてあの言葉の意味を実感した。


表面じゃなくて、ずっと真剣に相手の中身を見て、本気で自分の中身で勝負してきた人。

さっきそんな人に、私もそのうちなれると言ってもらえた。


そして、ふと思った。


今まで見た目で判断されることが、ずっと嫌だと思ってきた。

重くて疲れて、うんざりしてきた。

でも今日の係長を見て、なんだかそのことが少し馬鹿らしく思えた。


今日あの応接室にいた二人も、最初は私しか見ていなかった。

でも帰る頃には、どちらも私を見ていなかった。

みんな係長の話を聞いていた。


 あんなふうに人を惹きつけられる人がいるんだ……。


見た目なんて忘れてしまうくらいに。

私もそんな人になりたい。

だから私はこの人から学びたい。


………。


清書をしないといけないのに、目が勝手に、係長の横顔に惹きつけられてしまってた。


係長は今も、いつもと同じ顔でいつも通りに図面を見てる。

打ち合わせで見ていたあの表情は、もうどこにもない。

でも今はその無口な横顔に、さっきの顔が重なって見える。


この人のことが、もっと知りたい。



◆第17話「五月十六日、三人で」、明日20時に更新します!

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