第16話「五月八日、知らない顔」
五月の第二週、水曜日の午後。
馬平係長と二人で、お客様のお店に向かった。
ある和菓子屋さんが隣県に新店舗を建てたいとのことだった。
私にとって、初めての客先訪問。
電車の中で係長が言った。
「今日の目的は相手の要望を聞きながら、予算と設計条件に合う落としどころを見つけることだ。 どういう会話になるか、よく聞いておけ」
「はい」
係長はそれ以上何も言わず、窓の外を見ている。
……落としどころを、見つける。
相手の要望とこちらの条件を、どこかで折り合わせる。
言葉にすると簡単そうだけど、実際にどうやるのか、私には全く想像がつかなかった。
◆
訪問先の和菓子屋さんは、立派な老舗って感じがした。
暖簾をくぐって店内に入ると、品のいい香りがした。
ショーケースには、季節の生菓子が丁寧に並んでいる。
奥の壁に創業百二十年と書かれた木の板が掛けられていた。
レジのお姉さんに案内された応接室に入ると、二人の男性が待っていた。
営業担当らしき四十代くらいの男性と、若い社長だった。
若い社長は三十歳前後だろうか。
清潔感のある顔立ちだけど、老舗の後継ぎとして厳しく育てられてきたのか、どこかぎらついたような雰囲気を感じた。
私たちが挨拶をすると、二人の視線が、私に来た。
係長に、ではなく。
営業担当の男性が、咳ばらいをひとつして、もう一度私を見た。
若い社長が、私に目を固定したまま椅子を引いた。
またこの視線。
いつもならもう慣れているけど、この初めての場面では、かなりきつい。
係長はそういうことには一切頓着せず、名刺を出して、席についた。
「本日はお忙しいところお時間をいただき、ありがとうございます。 さっそくですが、まず現在のご要望を改めてお聞かせいただけますか」
係長が流れるように切り出した。
私は隣に座ってノートを開いて、ペンを持った。
………。
その後、二時間、私はほとんど口を開かなかった。
いや、開けなかった。
それは――
――係長が、全く別人だったから。
◆
若い社長が図面を指さして言った。
「この壁を全部ガラス張りにできないかな」
係長が社長を見た。
「理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「ここを全部ガラスにすると、外からでも工場の中が見えるんです。 うちは職人が売りなんです。 職人が丹精込めて作っているところを見せたいんだ」
「なるほど」
係長はしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「この土地は西日が強いので、全面をガラス張りにすると直射日光がかなり入ってきますね。 工場内が相当暑くなってしまいます」
社長の表情が少し曇った。
「でも見せたいんだよ」
「はい、その思いはとても素晴らしいと思います」
社長が話し終えるまで待っていた係長は、否定もしなかった。
「では、お客様に見せる場所を作りませんか?」
社長が顔を上げた。
「見せる場所?」
「和菓子を作る工程の中で、お客様が見たいと思うところ、社長が一番見せたいと思うところを絞って、ガラス越しに見えるようにするんです。 他は壁にして、直射日光から守るんです。 職人さんもお客様もそこに集中できますし、建設費も空調の電気代もかなり抑えられます」
「なるほど……」
社長はもう一度図面を見た。
「全部を見せるより、一番見てほしいところだけを見せたほうが、お客様の印象にも残ります」
社長が営業担当を見ると、営業担当がうなずいていた。
「社長、それなら予算内にも収まりそうです」
社長は係長を見て笑った。
「それでお願いします」
◆
いつもの口数が少なくて表情がなくて、短い言葉しか使わない係長は、どこにもいなかった。
相手の話をよく聞いて、うなずいて、適切なところで笑顔を交えながら、自分の言葉で返していく。
会話のテンポが自然で、相手が言いたいことを引き出すのが、とんでもなくうまい。
相手が「そうなんです、それなんです」と身を乗り出す瞬間が、何度もあった。
最初は私の方ばかり見ていた営業担当の男性が、気づいたら係長の話に前のめりになっていた。
若い社長も前のめりになって、高そうな手帳にメモを取りながら、係長の言葉を真剣に聞いていた。
私は自分のメモを取りながら、何度も係長の横顔を見た。
いつの間にか、見惚れてた。
この人、こんな顔をするんだ。
こんな声の出し方をするんだ。
こんなふうに目じりを下げて笑うんだ。
いつも事務所で見ている係長と同じ人とは思えなかった。
………。
そして気づいたら、打ち合わせが終わってた。
次回までに検討してほしい事項を、係長が簡潔に伝えた。
営業担当の男性が「わかりました」と言って、若い社長もうなずいた。
二人とも、最初とは全然違う顔をしていた。
気づけば打ち合わせは、落としどころに着地してた。
どこでどうやって、この人は話をそこに持っていったんだろう。
メモを見返したけど、その瞬間がどこだったのか、わからなかった。
◆
帰り道、駅に向かって歩きながら、係長の隣を歩いていた。
五月の風が、今日は冷たかった。
商店街の途中にあった自動販売機の横で、係長が足を止めた。
「甘いのと、ブラック、どっちが好きだ」
「……甘いの、です」
係長はそれだけ聞いて、出てきた缶を取って、私に渡してくれた。
自分のブラックも取ると、また歩き始めた。
「ありがとうございます」
缶が温かかったから、歩きながら缶を両手で包んだ。
「係長って」
「ん?」
「あんなに会話が上手なんですね」
「……」
係長は前を向いたまま、少し間を置いた。
「仕事だからな」
「仕事だから、できるんですか?」
「心配するな。 風宮も、そのうちなる」
――そのうちなる
係長は断言した。
私もいつか、そうなれるって。
それがなんだか嬉しくて、嬉しすぎて、言ってしまった。
「どうして、いつもはああいう笑顔を見せてくれないんですか?」
少し踏み込みすぎた、と思った。
「………」
係長がわずかに困った顔をした。
……困った顔に、どきっとした。
「……必要なときには、する」
もういつもの口数少ない姿に戻ってて、その答えがなんだかとても係長らしく思えた。
私はまた前を向いて、缶を両手で包んだまま歩いた。
◆
事務所に戻って、打ち合わせのメモをノートパソコンで清書した。
思い出しながらキーボードを打っていると、目の奥に打ち合わせの光景が溢れてきた。
あんなにすごい人だったんだ。
あんなに人を惹きつけて、一瞬でその場を持っていく。
誰も嫌な思いをしないで、打ち合わせが終わったときには、その場の誰もが満足している。
この人は、もう二十年近く、この熱量で仕事をしてきた人なんだ。
神崎係長が言っていた言葉を、思い出した。
――彼は、本物だから
あの時はなんとなく、そうなんだ、と思っただけだったけど、今日初めてあの言葉の意味を実感した。
表面じゃなくて、ずっと真剣に相手の中身を見て、本気で自分の中身で勝負してきた人。
さっきそんな人に、私もそのうちなれると言ってもらえた。
そして、ふと思った。
今まで見た目で判断されることが、ずっと嫌だと思ってきた。
重くて疲れて、うんざりしてきた。
でも今日の係長を見て、なんだかそのことが少し馬鹿らしく思えた。
今日あの応接室にいた二人も、最初は私しか見ていなかった。
でも帰る頃には、どちらも私を見ていなかった。
みんな係長の話を聞いていた。
あんなふうに人を惹きつけられる人がいるんだ……。
見た目なんて忘れてしまうくらいに。
私もそんな人になりたい。
だから私はこの人から学びたい。
………。
清書をしないといけないのに、目が勝手に、係長の横顔に惹きつけられてしまってた。
係長は今も、いつもと同じ顔でいつも通りに図面を見てる。
打ち合わせで見ていたあの表情は、もうどこにもない。
でも今はその無口な横顔に、さっきの顔が重なって見える。
この人のことが、もっと知りたい。
◆第17話「五月十六日、三人で」、明日20時に更新します!




