厩戸屋敷
7/2 本日投稿分です。
厩戸屋敷の庭。
月の光は黒く分厚い雲に遮られ、湿気を含んだ重たい風が木々を揺らしている。
今にも雨が降り出しそうな中で、厩戸はアスラと向かい合っていた。
天燈鬼と龍燈鬼が傍らに控え、心配そうに見つめている。
「お前、本当に宇陀野に戻るというのか」
アスラの問いに、厩戸は力強い頷きを返す。
「われの身代わりとなった善徳どのが死の淵に立っているというのに、われだけが安穏としてはいられません」
アスラは腕組みをしたまま、厳しい表情で厩戸を見据える。
「確かにアムリタを得てお前が聖炎呪の使い手となれば、善徳の命を繋ぐことはできよう。だが、アムリタの影響で、あの地は変貌を遂げつつある。進めば進むほど、旧鼠など比較にならぬ強力な怪異が現れるだろう」
厩戸は黙して語らない。しかし、引き結んだ唇や強い眼差しが、決意の固さを物語っている。
「それだけではない。徐福。奴も必ず動く」
だが、厩戸の瞳に宿る強い光は微塵もゆるがない。その視線の先にあるのは厩戸の身代わりになって倒れた善徳の姿。血に塗れた善徳の姿が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
「だとしても、われが行かぬ理由にはなりません」
厩戸の言葉にアスラはやれやれと首を振る。
「だが厩戸よ、例えばあの牛頭馬頭を今のお前でどうにかできると思うのか?」
「それは」
厩戸にも自分の力不足は分かっていた。だが、厩戸のために身を投げ出した善徳を思えば、例え死地だと解ってはいても赴かないわけにはいかないのだ。
「だから、待てと言っている」
アスラは厩戸に行くなと言っているわけではない。待てと言っているのだった。
「よいか、厩戸。おれが三面六臂の姿になるには、あと半日ほどの時を要する。牛頭馬頭程度であれば今のおれでも引けを取らぬが、あの徐福のことだ、牛頭馬頭以上の怪異を準備しているだろうよ」
「ですがアスラどの。待っていては間に合わぬやもしれませぬ」
厩戸には焦りの色がある。
「厩戸よ、アスラの言うことにも一理あるぞ」天燈鬼が言う。
「おうよ。確かにあの善徳という小僧、人間としては見どころがあるが、我らにとっては厩戸、お前の方が大切なのだ」龍燈鬼も続く。
二体の鬼にとっては、厩戸こそが大事。その厩戸の命を救った善徳に感じるものはあるが、だからといって厩戸が命を失うようなことは容認できないのだ。
「友の命を見捨てるのか」
善徳が自らの身代わりなって倒れた時、厩戸は成す術もなく立ち尽くしていた。
「アスラどのがわれに言った言葉がこれだ」
厩戸を案ずる二体の鬼に厩戸は言う。
「友が命を懸けて救ってくれたのだ」
決意の炎を燃やす厩戸の瞳には、躊躇の色は欠片もない。
「今度は、われの番だ」
そのやりとりを聞いていたアスラは、苦い笑いを浮かべた。
厩戸め。もはや理屈ではどうにもならぬか。
愚かな。
だが、嫌いではない。
「厩戸よ。そこまで言うならもう止めはしない。同行してやりたいのは山々だが、おれが動けば徐福が必ずそれに気付く。まずは、お前たちが先行せよ」
アスラはおもむろに懐から何かを取り出して、厩戸に手渡した。
見れば、豪奢な細工の施された横笛である。
「これは?」
「お前らではどうにもならぬ時に、その笛を吹け。例えどれほど離れていようとも、必ずおれの耳に届くようにできている。そうすれば、瞬時にその場に赴くことができる」
「良いのですか?」
アスラはふんと鼻を鳴らすと、そっぽを向いて手を振った。
「ありがとうございます。では、先に行っております」
小さく笑った厩戸は、天燈鬼、龍燈鬼と共に宇陀野へと向かう。その背にアスラが声をかけた。
「死ぬなよ。厩戸」
振り返って微笑む厩戸の瞳に迷いはない。
友を救う。
その一念が、厩戸の歩みを揺るぎのないものにしていた。
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