治癒の呪言
6/30 本日投稿分です。
部屋には薬草を煎じた匂いが立ち込め、生々しい血の匂いが微かに混じっていた。寝台の上の善徳の顔からは血の気は完全に失われ、唇は乾ききっている。
胸には幾重にも白布が巻かれていたが、じわじわと赤く染まり続けている。
「出血が止まっていないんだわ」
止血してもなお、傷口から血が滲み出てくるのだ。
嶋は善徳の額に手を当てる。
冷たい。
命の灯が消えかかっていることが実感される。
嶋は静かに目を閉じ、呪言術の発動へ向けて心気を調える。
呪言術。
呪言というからには、術の発動の契機となるのは呪言、すなわち言葉だ。
だが、実を言うと、精霊との交感に言葉は必要ない。
呪言師の心に浮かぶ想念は、言葉を介さずにそのまま精霊に伝わるからだ。
では何故、呪言師は呪言、すなわち言葉を用いるのか。
その理由は、言葉の持つ力にある。
人は何かを思い浮かべるとき、まずそれを言葉にする。
言葉を発することで、心の中の想いを形にするのだ。
呪言師は、その言葉を膨らませることで、想いをより明確な形に整える。
そして明確になった想念をさらに言葉にする。
その循環の中で、精霊に伝えるべき想念を磨き上げるのだ。
だから、呪言師の用いる呪言に決まった形というものは存在しない。
呪言師一人ひとりが、自らの想いを形にするための言葉を紡ぐ。
その意味で、言葉の重さを知るという恵便導師の修行は、嶋の呪言術の向上に大きく貢献したと言える。
呪言師一人ひとりに個性があるように、その用いる呪言術にも個性がある。それは言葉選びに端的に表れる。
嶋は、どちらかと言えば感覚よりも論理に重きを置く。
例えば、治癒の呪言術を用いるとき、その効果を四つの過程に分けて考える。
まず最初は、診断。精霊が対象者の体内を巡り、外傷、内傷、心気の乱れを把握する。
次に、策定。治癒すべき部位を特定し、優先すべき箇所を定める。
そして、治癒。傷ついた部位を修復する。
最後に、回復。消耗した生命力を回復する。
この四つの過程それぞれで精霊の力を行使し、対象者を治癒する。
それが嶋の治癒の呪言術。
静まり返った善徳の寝室で、嶋の呪言術が始まる。
静かに両手を頭上に掲げ、嶋は呪言を紡ぎ始めた。
「天地に満ちる生命の精霊よ、我が声に応え、慈悲の光を降ろし給え」
嶋の言葉に応えるように、清涼な空気が部屋に満ち始める。所々に黄金の粒がきらめき、嶋を中心に渦を巻く。
その美しい光景の中心で、嶋は言葉を重ねていく。
「その慈しみの光をもって、この身に潜む傷と病の理を示せ」
頭上に広げた両手を降ろし、横たわる善徳の上にかざす。
すると渦巻く黄金の粒が善徳に降り注ぎ、淡い光となって全身を走り始めた。
「我は問う。命の理に従いて癒すべき道を。慈悲深き精霊の御力をもって我を導き給え」
善徳の全身を走る光がその速度を上げる。
激しく点滅しながら光量を上げていく。
「これは!」
嶋が眉を顰める。
本来であれば、この時点で修復すべき傷の部分が光り始めるはずなのだ。
全身を走る光が止まらない。
こんなことは初めてだった。
精霊の力をもってしても、修復すべき道筋を示せない。それは、善徳の病状が極めて危機的な状況にあることの証左でもある。
だが、ここで呪言を中断することはできない。善徳の治癒を諦めることを意味するからだ。
嶋は歯を食いしばって呪言を紡ぐ。
「我が全霊をもって願い奉る。傷つきし肉を結び、砕けし骨を繋ぎ、血脈を再び巡らせ給え。精霊よ、精霊よ、我が願いを聞きとげ給え」
その瞬間、善徳の全身を走る光が弾け飛んだ。
「嶋ちゃん!」
刀自古の叫び声が響く。
弾けた光が次第に消えていく中、嶋は苦しげな表情で膝をついた。
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