蘇我屋敷
6/25 本日投稿分です。
蘇我屋敷に集う重臣たちは憔悴しきっていた。
当主である馬子が疫病に倒れた上に、継嗣たる善徳までもが瀕死の状態なのだ。
蘇我家の屋敷にただならぬ緊張が走ったのは、その日の夕刻であった。
血に染まった善徳を馬の背に乗せた厩戸皇子が、険しい表情で駆け込んできたのだ。その後ろには、顔面蒼白となった刀自古の姿もある。
「兄さまを寝所に!すぐに医師を手配して!」
刀自古の声に家人たちが慌ただしく走り回り、湯が沸かされ、寝所が整えられる。そこへ血に染まった善徳が横たえられた。微かな呼吸で上下する胸が、かろうじて善徳の命を繋いでいる。
善徳、重傷。
その一報を聞いた重臣たちは色を失い、われ先にと屋敷に駆け付ける。
その誰もが瀕死の善徳を見て言葉を失った。
善徳の傍らには厳しい表情の厩戸皇子と、今にも泣きだしそうな刀自古の姿があった。
「なぜ厩戸どのが?」
重臣の一人が不審の声を上げる。
厩戸は唇を噛み、静かに頭を下げた。
「われの落ち度です」
その言葉にざわめきが広がる。
「善徳どのは、われを庇って矢を受けられたのです」
「厩戸どのを庇ったと?自ら身代わりになったと言われるか?」
ざわめきがさらに大きくなる。
「何故身代わりなどに」
声を荒げる者こそいないが、厩戸への隠しきれない不満と憤りが場を支配し始めた。
厩戸は拳を握りしめたまま、善徳を見つめている。自らを犠牲にして厩戸を庇った善徳の姿が脳裏を離れないのだ。
思えば宇陀野での最初の出会いの時も、この無鉄砲な若者は厩戸を庇おうとして飛び込んできた。天燈鬼や龍燈鬼と対峙して、厩戸を逃がそうとさえした。
なぜそこまでできるのか?
我が身を犠牲にしてまで周囲のものを守ろうとする。
それは厩戸自身が目指した姿ではなかったか。
ならば、いま厩戸が為すべきことは。
厩戸は小さく頷くと傍らの刀自古に囁きかけた。
「刀自古どの。この場はお任せしてもよろしいか?」
「え?」
怪訝な表情で振り返る刀自古の眼に、厳しい表情の厩戸が映る。
「われは今一度、宇陀野に戻ろうと思うのです」
「もしかして、兄さまのためにアムリタを?」
頷く厩戸の眼は、横たわる善徳を見つめている。
「では、刀自古もご一緒します」
立ち上がろうとする刀自古を手で制する。
「なりません。刀自古どのは善徳どのの傍にいてください。刀自古どのがいるだけで、善徳どのの力となりましょう」
刀自古は暫く迷っていたが、やがてしっかりと頷いた。
「われは、これにて失礼いたす。善徳どののこと、お頼み申し上げる」
立ち上がった厩戸皇子に蘇我家の重臣たちの冷たい視線が突き刺さる。
厩戸は静かに一礼し、善徳に祈るような目を向けた後、寝所を後にした。
「まったく、何ということだ!」
「蘇我の跡取りが、なぜ皇子の身代わりにならねばならんのだ!」
「捨て皇子め。善徳どのをこのような目に遭わせておきながら!」
重臣たちの怒りと不満が一気に噴出する。
「よして!」
刀自古が声を上げる。
「厩戸さまを責めるのは、違います」
「で、ですが刀自古どの」
ゆっくりと立ち上がり、刀自古は重臣たちに深々と頭を下げる。
「兄さまを心配してくださるお気持ちは、有難く思います。でも、厩戸さまを責めるのはやめてください」
「しかし」
「しかし、ではありません」
刀自古の声が一段と高くなる。
「兄さまは、誰かに命じられて厩戸さまを庇ったのではありません。自分でそれを選んだのです」
重臣たちが押し黙る。
「困っている人がいれば助ける。危険な目に遭う人がいれば守る。相手が誰であろうと、兄さまは躊躇せずにそうするでしょう。それが厩戸さまではなく、あなた方であったとしてもです。厩戸さまを責めるのは、兄さまを責めることと同じです」
「そんなことは、刀自古が許しません」
最後の小さな呟きが、静まり返った善徳の寝所に集う重臣たちの心に大きく響いた。
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