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母の訪問

本日、3話更新の1話目です。

 穴穂部間人皇女。

 その父は先の大王である欽明王、母は蘇我小姉君。

 先代の大王の娘であり、蘇我氏の頭領である蘇我馬子の姪、ということになる。

 この時代でも指折りの、正真正銘の姫君である。

 名門蘇我家の庇護のもと蝶よ花よと育てられ、未来の大王候補である橘皇子に嫁ぐという、誰もが羨む華やかな人生を歩み、やがて厩戸を産んだ。


 その母と直接に向き合うのは、果たして何年振りであっただろうか。

 だが厩戸が感慨を覚えるようなことはなかった。

 そもそもともに暮らした経験が皆無なのだ。高貴な女性が自ら子育てを行うことが稀であったこの時代においても、それは異常なことであっただろう。親子の情愛などというものを厩戸に求めるのは酷だと言わねばならない。

 その母が、突然訪ねてきた。いぶかしく思うのも当然であった。


「厩戸どのにお願いがございます」

 鈴を転がすような声で母が言う。

 キシリ、と家鳴りがした。

 母とお付きの女官たちが不安げに顔を見合わせる。

 この屋敷に住まう怪異どもが不平を鳴らしているのだ。

「捨てたも同然の厩戸にお願いだと?なんと図々しい」

「話など聞く必要もないわ。とっとと追い返してしまえ」

 無論、その声は厩戸にしか届かず、その姿は厩戸にしか見えない。


「母上のお願いとあらば、喜んで承りましょう」騒ぎ立てる怪異どもを目で制し厩戸がそう言うと、穴穂部間人皇女は一通の書状を取り出した。

 薬猟への招待状である。

 招待状とは名ばかりの、実質的な招集状であった。文末には蘇我馬子の署名がされている。

 これは断ることはできまいな。厩戸は心の中でため息をついた。

 まことに面倒なことではあるが、招集には応じねばなるまい。

 

「いかがでありましょうか」

 書状を見つめたまま無言の厩戸に、穴穂部間人皇女が遠慮がちに声をかける。

「承知いたしましたと馬子どのにお伝えください」

 厩戸がそう応じると、穴穂部間人皇女は明らかに安堵した様子で、静かに咲く花のように嫋やかな微笑みを浮かべた。


 ああ、この母はおれに会えたことよりも、馬子殿の依頼を果たせたことのほうがよほどうれしかったのであろうな。

 悲しいわけではなかった。

 辛いわけでもなかった。

 ただ何とも言えぬやりきれなさを感じるのは何故だろうか。

 厩戸の背中を怪異どもが心配そうに見つめていた。


お読みいただきありがとうございます。

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