家鳴り(やなり)
本日の投稿分です。
落ち着きを取り戻した刀自古は、屋敷の主である厩戸皇子に挨拶していないことに気がついた。いけない、ちゃんと挨拶をしなければ。刀自古は礼儀正しい女なのだ。
急いで厩戸のもとへと歩み寄る。
「ご挨拶が遅れました。善徳の妹、刀自古と申します」
蘇我の一族に連なる者として、厩戸皇子の名は耳にしていた。高貴な生まれの方だということはもちろん、捨て皇子という異名の由来も聞いている。
だから、人に馴染まぬ気難しい方だろうと思っていた。鋭い眼光で人を見透かし、誰にも弱みを見せぬような、そんな姿を想像していたのだ。
ところが。
「よく来てくれました、刀自古どの」
柔らかな声だった。
力みのない立ち姿と静かな微笑みを見て、刀自古は意外に思う。
想像していた雰囲気とは違う、春の陽だまりのような温かさを感じる。
特に印象的なのは、その瞳だ。
漆黒の瞳の奥にかすかに紅い光が揺れているように見える。
澄み切っていながら底が見えない深淵。
目の前の刀自古を映しながら、どこか遠く、時の彼方を見つめているようにも思える。
不思議な人だ。
そう言えば。
「厩戸さまは常人には見えぬものが見えると聞きます。それはまことのことでしょうか?」
「おい、刀自古!」
慌てたのは善徳である。なんと物怖じしない妹なのか。
だが、厩戸は笑っている。
「見える、といえば見えるのですが、世の人が言うほどに特別な事とは思えぬのです」
厩戸の言葉に刀自古は首を傾げる。
「例えば刀自古どの、この庭へ飛び込んできたとき、離れろ、化け物!と叫ばれましたね」
「あ、あの、ごめんなさい!龍燈鬼どの、わたし、何もわかってなくて」
あわてて詫びる刀自古だが、龍燈鬼は気にするなとばかりに首を振る。
「つまり、刀自古どのには龍燈鬼の姿が見えていたというわけだ」
確かにそうだ、と刀自古は頷く。
「世にいう怪異や人外、あやかしたちは人との交わりを嫌います。ゆえに常に隠形し、人は滅多にその姿を見ることはできません。ですが、例えば闘いの場のように集中を必要とするときには、隠形は解ける」
龍燈鬼は善徳との掛かり稽古に集中していたため隠形が解け、刀自古にもその姿を見ることができたというわけだ。
「隠形を用いるのは必要な場合だけなのです。この屋敷に住まう怪異たちは、われの家族のようなもの、したがって、われに隠形を用いることはありません。今となっては見えるということに、さほどの値打ちがあるとも思えぬのです」
なるほど、と刀自古は得心した。厩戸皇子はそう言うが、見えるというのはやはり特別な事なのだ。
そこで刀自古は、先ほどから気になっていることを厩戸に聞いてみることにした。
「では厩戸さま、あれらは何をしているのでしょうか?」
「え?」
刀自古の指さす方を振り返って、厩戸は驚いた。
「刀自古どのにはあれが見えるのですか?」
はい、と刀自古は頷く。
「可愛らしい小鬼たちが何やら騒いでいるように見えます」
この屋敷に住まう家鳴りたちが、こちらを見て騒いでいるのだ。
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