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刀自古郎女(とじこのいらつめ)

本話より新章「飛鳥擾乱」の開始です。

 刀自古は苛立っていた。

 兄である善徳と、もう何日も会っていない。


 刀自古郎女。

 父は善徳と同じ蘇我馬子、母は物部太媛、馬子の政敵である物部守屋の妹であった。

 その出自が刀自古の立場を複雑なものにしている。


 政略結婚。

 この時代にあっては、高位の豪族にとって婚姻は政治の手段であった。右手で握手をしながら左手で殴り合うことが当たり前のように行われていたのだ。馬子と太媛の婚姻も、当時の朝廷における勢力争いを背景としながら、物部と蘇我、それぞれの家の政略の一環として実現したものだった。


 婚姻を結ぶ当人同士は、それでよかったかもしれない。それが時代の常識だったからだ。

 だが、子供にとってはどうだっただろうか。

 愛情に満ちた温かい家庭環境の中で育つとは限らない。

 

 この時代、妻問婚と呼ばれる夫が妻の家に通う通い婚が主流であった。夫婦は別居が基本であり、子供は母の家で育てられる。

 刀自古もその例に倣い、物部の屋敷で育てられた。

 蘇我氏の屋敷に居を移したのは、昨年のことであった。


 それには父である物部守屋の意向が強く反映されている。

 朝廷内での政争が激しさを増す中、一族の結束を強めていくうえで、蘇我氏の血を引く刀自古の存在が邪魔になったのだ。

 それは蘇我氏に対する宣戦布告にも等しい行為だったといえるだろう。以降、朝廷内での両氏の勢力争いは一層激しいものとなった。


 そういう訳で、蘇我氏の屋敷で暮らすことになった刀自古だが、そこでの生活も決して快適なものではなかった。なにしろ物部の血を引く娘である。誰もが腫物を触るように刀自古を扱った。


 だが、善徳だけは違った。

 善徳にとって、刀自古は自分と同じ血を引く妹以外の何者でもなかった。刀自古が蘇我の屋敷にやってきたその日から、まるでずっと一緒に暮らしてきたかのように接してくれたのだ。

 それが刀自古の救いとなった。


 元来は陽性の気性を持つ娘である。

 刀自古も善徳に良くなつき、日を追うごとに本来の活発で明るい姿に戻っていった。そうなると、周囲の扱いも変わってくる。刀自古の明るさは、周囲のものを照らし、巻き込み、変えていくような、そういう類の明るさだった。


 刀自古が物部屋敷に暮らしていたときに日課にしていたことがある。

 拳法の鍛錬である。

 この時代に、しかも女性が武術の鍛錬というのは、相当に珍しい。

 物部氏が兵事を司る武辺の一族だったことが、それを可能にした。


 刀自古はこの時代の娘としては背が高く細身ではあるが、華奢な印象はなかった。すらりと伸びた手足は柳の枝のように柔軟で、しかし内には張りのある筋肉が潜み、ひとたび動けば風を切る鋭さを帯びる。

 父である守屋の武の才を、刀自古は確かに受け継いでいた。

 剣や弓矢などの武器を扱うよりも、自らの体を使う拳法が刀自古の気性にもあっていたのだろう、父の守屋も驚くほどの才を示した。


 だが、蘇我の屋敷で鍛錬を行うことは、さすがの刀自古であっても憚られた。

 しばらくは我慢していたのだが、とうとう耐え切れずに善徳に泣きついた。

 泣きつかれた善徳は困惑した。だがかわいい妹の願いを無下にすることもできない。

 物は試しと立ち会ってみることにした。


 立ち会って、驚愕した。

 拳を構えた瞬間、刀自古の印象は一変する。優美に見えた指先は鋼のように締まり、構えに無駄はなく、静かでありながら隙がない。踏み込みは軽やかで地を蹴る力は驚くほどに強い。まるで舞うように動きながら、的確に急所を狙ってくる。


 自分とさして年の変わらぬ妹の才に、善徳は驚くとともに喜びもした。そして、その才を伸ばしてやりたいとも思った。馬子に願い出て、刀自古に拳法の師をつけることを認めてもらう。大陸由来の拳法の達人と伝えられている渡来人、池辺氷田が刀自古の拳法の師となった。


 それ以来、刀自古はますます善徳になついた。暇があれば善徳のもとへ行き、あれやこれやと話をする。それが刀自古の新しい日課となる。善徳もそれを嫌がらずに聞いてやった。


 ところが、その善徳ともう何日も会えていない。

 刀自古の苛立ちは限界を迎えようとしていた。


お読みいただきありがとうございます。

本作のヒロイン候補の登場です。刀自古ちゃん。

厩戸皇子や蘇我善徳と同様、実在の人物とされています。

史実では厩戸皇子と結ばれることになるのですが、本作では果たしてどうなるか。

刀自古ちゃん、ちょっとブラコン気味なのが心配です。


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