宇陀野
本日2話投稿の2話目となります。
洞穴を出ると、宇陀野は既に夕暮れ時を迎えていた。遠く連なる山々の稜線が茜色に染まり始め、波乱に満ちた一日はようやく静かな終わりを告げようとしている。
善徳は、まるで奇跡のようだった一日を思い返す。
神剣天断は、今は鞘の中で眠っている。
夜叉との戦いの中で舞うように振るった剣も、今はただ重く、確かな存在として腰に寄り添っていた。
その重みが、今日という一日が幻ではなかったことを教えてくれる。
「善徳どの」
前を行く厩戸が振り返り、善徳に声をかけた。
「我らはこの辺りで野営しようと思います」
見れば天燈鬼、龍燈鬼はそれぞれ馬と犬に姿を変え、厩戸に寄り添っている。
「おお、では何やら名残惜しくはありますが、俺もここで失礼いたしましょう」
去ろうとする善徳を厩戸が再び呼び止めた。
「善徳どの、ひとつお願いがあるのです」
「厩戸どのの願いとあらば、この善徳、何であれお受けいたしますが」
厩戸は、天燈鬼、龍燈鬼、そしてアスラに頷くと、あらためて善徳に向き直った。
「今日あったこと、しばらくの間、内密にしていただきたいのです」
厩戸にしてみれば当然の願いであった。
天燈鬼、龍燈鬼、そして厩戸の周囲の人外、怪異。その存在を知れば、それを忌み嫌うものとの争いが生じかねない。人外、怪異、魑魅魍魎、それはほとんどの人にとって討伐、調伏の対象でしかない。善徳のように自然にその存在を受け入れることのできる人間は稀有だと言わざるを得ない。
そして、アスラ。
想像を絶するほどの力を持ったアスラの存在もまた、禍の種となりかねない。その超絶した力を恐れる者もいれば、何とかその力を手にしようとする者もいるだろう。アスラを巡る混乱や争いが生じることは想像するに難くない。
「ですので善徳どの、願いを聞き入れてはくれまいか」
善徳は考える。
父の馬子からは、厩戸のことを気に留めておけと言われている。
天燈鬼や龍燈鬼、そして厩戸を守り育てたという怪異たちの存在、アスラの驚くべき能力、何よりも異形たちとの命を賭した闘い。そのすべてを自分の胸の内に留めるということ。それは父である馬子、そして蘇我家を裏切ることになるのだろうか。
ふと厩戸と目が合った。
穏やかな瞳の中に、強い覚悟を秘めていることを善徳は知った。捨て皇子と揶揄されながらも人と人外の間に立つと言い放った不器用なほどの誠実さ。
そして何よりも肩を並べて戦ったあの瞬間を善徳は思い返す。
「承知しました。今日のこと、誰にも話しは致しませぬ」
言葉にした瞬間、一つの重みが体に乗った気がした。
それは、守るべきものを託された証のようでもあった。
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