宇陀野本陣
本日3話投稿の2話目です。
その頃、宇陀野の本陣で異変に気付いた男がいた。
司馬達等である。
地下の洞穴でアスラの封印が解かれたその瞬間、高濃度の圧を持つある種の波動が宇陀野の地に拡散した。
「む。これは!」
その瞬間、司馬達等は目を大きく見開いた。指先が無意識に震え、胸元の古びた呪具が鳴動する。震える手でその呪具を握りしめ、低い声で呪文を唱え始めた。周囲の状況を探索する呪術。ところが術が発動しない。周囲にいる精霊たちとの交感ができないのだ。術の発動のトリガーとなる精霊たちが、原因不明の興奮状態となっており、意思の疎通が阻害されている。経験豊富な司馬達等にして初めて経験する異常事態だ。
司馬達等の容易ならぬ様子に気付いた池辺氷田が駆け寄ってくる。
「いかがした、司馬どの」
呆然と立ち尽くしていた司馬達等であったが、気を取り直して周囲の様子を探ってみる。相変わらず精霊たちは興奮状態で交感不能の状態が続いているが、それ以外には目に見える異変は起きていないようだ。
「氷田よ、急ぎ馬子どののもとへ向かうぞ」
蘇我馬子は困惑していた。
「薬猟を中止せよというのか」
司馬達等の呪言師としての能力を、馬子は高く評価していた。達等の進言に助けられたことも一度や二度ではない。
しかし、と蘇我馬子は考える。
鳴り物入りで始めた今回の薬猟である。朝廷に集う氏族たちの注目度も高く、なにより病床にある大王に鹿茸を献上するという名目で始めたものなのだ。そう簡単に中止にできようはずもない。しかし、それを十分理解したうえで、それでもなお、達等は中止を進言してきたのだ。
どうすべきか。
「中止だと!渡来人風情が出過ぎたことを申すな!」
たまたまその場に居合わせた穴穂部皇子が吠えた。
あまりに無礼な物言いに反論しようとする池辺氷田を押しとどめ、司馬達等は黙って礼をとる。
「馬子どの、こ奴らは何も分かっておらぬのです。いまさら中止などすれば、物笑いの種ですぞ。異様な波動がどうとか精霊が興奮状態とか、訳のわからぬ世迷言に耳を貸してはなりませぬ」
そもそも穴穂部皇子は渡来人のことをこころよく思っていなかった。馬子が渡来人を重用していることが気に食わないのだ。
「達等よ、実際のところ、どうなのだ」
「わかりませぬ。ただ、何が起こっても不思議ではない、それほどのことだと感じております」
馬子の問いに司馬達等は躊躇することなく答える。
「わからないだと!では黙っておれ!」穴穂部皇子が再度吠える。
穴穂部皇子には、薬猟で厩戸皇子に恥をかかせ、厩戸の乗馬を取り上げようという思いもある。なんとしても薬猟を続けさせたかった。
穴穂部皇子の言うことにも一理ある、と馬子は思案する。明らかな実害が出ていない以上、確かに達等の言う理由だけでは、薬猟を中止するには弱いと言わざるを得ない。
「達等よ。しばらくはこのまま様子を見る。警戒を怠らぬよう頼む」
馬子の決断であれば仕方があるまい。穴穂部皇子の得意げな笑顔は気に障るが、まあそれは良い。どれほどのことができるか不安ではあるが、やれることをやるまでだ。
まだ不満げに穴穂部皇子を睨む池辺氷田を連れ、司馬達等は本陣を後にした。
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