物部氏からの密使
9/29 本日投稿分です。
彦人皇子の前には、中臣勝海が神妙な面持ちで座している。
中臣氏といえば、朝廷で神祇を司る有力な豪族であり、物部氏と同じ廃仏派に属している。いわば、物部派の氏族であった。
(その中臣が、なぜ訪ねてきたのだ?)
中臣勝海は貴公子然とした彦人皇子を前に、昨夜の物部守屋との密談を思い返していた。崩御された敏達大王の後継について、話し合っていたのだ。
後継候補は四人おり、そのうち三名までは蘇我氏出自の母を持つ。その三名のいずれが即位しても、朝廷内での蘇我氏の勢力が増すであろうことは、容易に想像できた。
なので、何としてもそれは阻止したい。
そのためには、別の候補を擁立する必要がある。
(それが、この皇子か)
この見るからに線の細い皇子に、大王位を継承する覚悟があるのだろうか。勝海の前に座す彦人皇子の姿は雅であり、見るからに頼りない。朝廷内での厳しい政争に耐えうるのか疑問に思う。
しかも物部にせよ中臣にせよ、これまで彦人皇子と接点を持ったことはない。それが突然訪ねてきて、大王位への即位を後押しするというのだ。皇子からすれば、何故だという疑念の方が勝るであろう。
だが、現状では彦人皇子以外の選択肢はないのだ。なんとしても口説き落とさねばならない。だが万が一、うまくいかないようであれば。
勝海は、守屋との密談に同席した道士の言葉を思い出す。徐福と名乗る道士からは、彦人皇子が誘いに応じぬ場合に使えと渡されたものがあった。不思議な形をした小瓶である。
その小瓶には、あるものが封じてある。彦人皇子が擁立を断るようであれば、隙を見てその蓋を開けよと徐福は言った。
小瓶に封じたあるものとは何かと勝海が問うと、徐福は昏い目で俯いたまま、何も答えなかった。代わって守屋が取り成すように、それは聞かぬ方が良いという。それを使うのは最後の手段であり、まずは何としても説得するのだと。何故だという問いを無理やり飲み込んで、勝海はその小瓶を受け取った。
「それで、どのようなご用件で見えられた」
彦人皇子の問いに、勝海はどう切り出すべきか思案する。当り障りのない話よりも、最初から本題に入るべきと判断し、顔を上げて彦人皇子を真っ直ぐに見つめた。
「さすれば、敏達大王の後継について、彦人さまのお考えを伺いたく」
一瞬大きく目を見開いた彦人皇子だったが、しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「大王が崩御されて間もないこの時期に、後継を云々するのはいささか不敬ではあるまいか」
その言葉に勝海は深々と頭を下げる。
「まことに正論でございますな。しかし、都における疫病も未だ鎮まらぬうえ、大王不在とあっては民草の不安もいや増すばかりかと。彦人さまにおかれましては、亡き敏達大王のご長子にございますれば、何らかのお考えがあって然るべきかと」
「ふむ。では、中臣よ。汝はどう考えるのか」
勝海は顔を上げ、真っ直ぐに彦人皇子と向き合った。
「彦人さまに即位の意思がおありならば、畏れながら推挙させていただきたいと、物部守屋どのが申しております。無論、我ら中臣も同じ思いでございます」
「物部がわれを推すというのか」
「御意」
再び勝海は平伏する。
その頭を見ながら、彦人皇子は思いを巡らす。
自分以外の大王候補は全て蘇我の色が濃い。それゆえ物部は自分を推すのであろう。次期大王を決定する朝議では、蘇我氏と物部氏が激しく争うことになるに違いない。そして朝廷における両者の力関係は五分。
勝海の言う推挙を受けるということは、物部に与するということだ。勝てるなら、それもあるかもしれない。だが、もし負ければどうなるのか。物部派の皇子と見做され、物部氏と運命を共にすることになろう。
「われは大王位には興味がない」
その言葉に勝海の頭が跳ね上がる。
「お待ちください!」
「いや、待たぬ」
「それではこの国は、この国の民はどうなりましょう」
「われは、われのできる範囲で力を尽くそう。大王位など、われには荷が重い」
「ご再考を!」
「ない」
断言する彦人皇子の表情に揺らぎはない。
(ここまでか)
勝海は懐に忍ばせた小瓶を握りしめた。
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