押坂彦人皇子
9/27 本日投稿分です。
この世に生を受けたときから、将来を約束されていたはずだった。それが狂い始めたのは、母の広姫が薨去してからだ。母が亡くなってすぐに敏達王は炊屋姫を正妃とした。そして間もなく竹田皇子が産まれる。それによって、彦人皇子の次期大王という未来が危うくなり始めた。
それでも父である敏達王が健在の頃は、まだ良かった。有力な豪族であっても、敏達王の長子である彦人皇子には一定の敬意を示した。炊屋姫の出自が蘇我家であったため、蘇我氏に与する豪族たちの間では、時期大王に竹田皇子をという隠然たる動きはあった。だが、敏達王にそれを奏上するほどの動きにはなっていなかった。
動きが明らかに変わったのは、敏達王が病に伏してからだった。病状の重さに比例して、竹田皇子擁立が公然と語られるようになったのだ。
実を言えば、彦人皇子自身は大王位の継承にこだわりがあったわけではない。生を受けたときから次期大王だと周囲から目され、自分もそれを当然のことと受け入れていた。だから、自分自身が大王位を強く望んだわけではない。だが、大王位以外の未来を想像することも、彦人皇子にはできなかった。
そして、敏達大王は崩御した。
次期大王位をめぐる争いが始まる。
朝廷内で寄る辺の無い彦人皇子は、途方に暮れていた。
大王位に執着しているわけではない。だが、他の者が大王位を継承したとき、自分はどうなってしまうのか。
彦人皇子は、敏達大王の遺体の前で、並んで座している炊屋姫を横目で見る。母が薨去した後、敏達大王の正妃となり、竹田皇子を産んだ。その母は蘇我家、父は先代の欽明王という血筋から、朝廷内に大きな影響力を保持している。次期大王の選定に際しても、大きな発言力を持つはずだ。だが、炊屋姫が彦人皇子を推すことは考えられない。まず間違いなく、息子である竹田皇子や弟である橘皇子を推すであろう。
だが、その両名は蘇我家の血を引いている。物部家をはじめとする反蘇我系の有力者が、指を加えて見ているはずはないのだ。おそらく、これから朝廷では豪族たちの激しい争いが始まるに違いない。
そんな中、自分はどう立ち回ればよいのか。
隣に座していた炊屋姫が立ち上がり、彦人皇子を一瞥もせずに部屋を出ていった。一人残された彦人皇子は、敏達王の遺体をじっと見つめながら、不透明な自らの未来に不安の色を隠せない。
「彦人皇子さま」
部屋の外から声が聞こえた。
「どうした?何事か?」
「中臣勝海さまがお目通りを願い出ております」
中臣勝海といえば、物部派の重鎮である。
彦人皇子の運命の歯車が、ゆっくりと回り始めたのだった。
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