執着する心
7/26 本日投稿分です。
厩戸の眼は虚ろなまま、疫病で次々と侵される民を見つめ続けている。
善徳は血に染まった己の剣を震える手で握りしめ、龍燈鬼は倒れていく怪異の幻影の中で咆哮し、天燈鬼は絶望に膝をついている。
刀自古は姿の見えない仲間を求める叫びを上げ、嶋は涙を流しながら治癒の呪言で回復しない人々の幻を抱きしめていた。
「いったい、どうすれば」
呟いた厩戸の虚ろな目に、微かな光が差した。
「これは?」
見れば、光は厩戸の胸元から届いている。
「何だ?横笛?」
厩戸の懐で、宇陀野へ向かうときにアスラから託された横笛が淡い光を放っているのだ。
宇陀野へ向かう時、アスラはこう言った。
「お前らではどうにもならぬ時に、その笛を吹け。そうすれば、瞬時にその場に赴くことができる」
震える手で取りだした横笛をそっと唇に押し当てた。
竹の冷たさが肌に伝わる。
静かに息を吹き込む。
すると、暗闇を優しく照らすような、切なくも優しい音が響き渡った。
その瞬間、眩い光が世界を照らし、思わず目を閉じる。
「なんだ?随分と情けないことになっているではないか」
目を開くと、そこには傲然と胸を張り、皮肉な笑みを浮かべたアスラの姿があった。
「どうだ。目が覚めたか」
しかし、厩戸の前には未だ疫病に悶え苦しむ民の姿がある。
「ちっ。まだわからぬか」
舌打ちをしたアスラが厩戸の額を指先で軽く弾いた。
「痛っ」
思わず額を抑えた厩戸の前には、元の洞穴が広がっていた。
「みんなは?」
厩戸が周囲を見回すと、善徳や刀自古、天燈鬼、龍燈鬼も、少しずつ正気を取り戻し始めていた。
「アムリタの光を防ぐ結界を張った」
アスラはアムリタを指し示す。
「アムリタが見せる幻の本質は、お前たち自身の執着だ。だから、守りたいものがある者ほど、アムリタの罠に嵌る」
「では、どうすれば?」
厩戸の問いに、アスラは肩を竦める。
「さてな。天界の神仏どもであれば、執着を捨てよとでも言うのだろうが」
「違いますか?」
「違うな」
アスラは断言する。
「執着というのも、人の想いだ。みなを守りたいというお前の執着、お前の想いがお前の術を、お前自身を強くする」
厩戸が頷く。
「問題は、執着することで周りが見えなくなることだ。どんなに執着しても良い。だが、囚われるな。見失うな。お前の執着を全うするための強い心を持て」
真剣な表情の厩戸を見て、アスラはぷいと顔を背ける。
「まあ、言うほど簡単なことではないがな」
「さて、では行こうか」
アスラはアムリタに向かって歩き出し、回復した厩戸たちも後に続く。
だが、すぐに異変が生じる。
アムリタが再びその黄金の脈動を強めたのだ。
岩壁が隆起し、無数の槍となって襲いかかってきた。
慌てて飛びのく厩戸たち。
しかし、アスラだけは避けようともせず、平然として歩みを止めない。
「危ない!アスラどの!」
だが、槍はアスラの目前で音もなく崩れ去った。
地面から湧き出した黒い瘴気が怪物の姿となり、牙をむいて襲いかかる。だが、それもまたアスラに牙を立てる寸前に霧散した。
「どうして?」
刀自古が驚きの表情を浮かべる。
「言ったであろう、囚われるなと」
振り返りもせずにアスラが答える。
「アムリタには直接攻撃するような力は無い。これはアムリタの見せる幻影に過ぎぬのだ」
そして、ついにアムリタにたどり着いたアスラが、静かに黄金の球体へと手を伸ばす。
すると、アムリタはようやくその脈動を落ち着かせ、自ら応えるようにアスラの掌に収まった。
数百年の時を経て、アスラは再びアムリタを手にしたのだった。
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