EP.09 その日、彼はついに支配される恐怖を思い出した
腹の奥から突き上げる激痛に、息ができなかった。
口の中では、温かいものが蠢いている。吸われ、舐められ……
息もできないほど深いキスだった。
意識まで溶かされそうになりながら、快感と苦痛が同時に押し寄せてくる。
「ヒロ……ヒロヒロヒロヒロヒロヒロ♥」
「……!」
彼女はうっとりとした目で俺を見つめ、俺の血をごくり、ごくりと飲み下した。
息を吸おうとすると、また唇を塞がれる。
体を押しつけられ、腹の痛みがさらに強くなった。
死ぬ。
死んじまう。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ──!
「ん、ぐちゅ……!」
舌の絡み合う音が、頭の中に響き渡る。
彼女は俺の腹に刃を埋めながら、その口で命を吸い上げていた。
まるでサキュバスだ。
妖しく、危険で。一滴も残さず、俺を喰らい尽くそうとしている。
「────」
頭が溶けそうだ。
視界が少しずつ暗くなる。
死を目前にした俺の世界は、彼女で埋め尽くされていた。
その声を聞き、唾液を味わい、香りを嗅ぎ、顔を見つめ、体温を感じながら──
最後に、死。
/////////
「ぷはっ──!」
俺はベッドから跳ね起きた。目を見開き、荒い息を繰り返す。
まだ生きているなんて、信じられなかった。
指を動かし、腹を触ってみる。どこにも異常はない。
ただの夢だったのか……?
そんな甘い考えを否定するように、頭上から女の声が降ってきた。
「あら、どうやら本当に全部思い出したみたいだね、広志さん」
「……?」
「どう? 自分の彼女に殺された感想は?」
「お前……ルビー?」
「この使者様以外に誰がいるのよ。もう、広志さん、寝ぼけてるの? だっさーい」
ルビーに呆れた目を向けられながら、俺は頭を掻いた。
ようやく、すべてが繋がった。
そうだ。俺はもう、一度死んでいる。
あの夜、俺は霞を深夜の公園に呼び出した。誰にも邪魔されない場所で、真剣に話し合うつもりだった。
なのに、そこは話し合いの場にはならず、俺の墓場になった。
霞に刃物で腹を刺され、俺は死んだのだ。
「うっ……!」
思い出した途端、吐き気が込み上げ、胃がひっくり返りそうになった。
おいおいおいおい、マジかよ、くそが!
大学を卒業したばっかりの俺が、あんな痴情のもつれで殺されたっていうのか……?
そのあとはどうなった? 親父は何て言ってた?
美杏は? 俺の周りのやつらは、どうなったんだ?
疑問が次々と湧いてくる。
だけど、それを知りたい気持ちよりも、今と未来のあまりの違いに受けた衝撃のほうが、ずっと大きかった。
「俺を刺したやつ……本当に霞なのか?」
五年後のあいつと、今のあいつを比べてみる。まるで、知らない女だった。
いや、体つきや顔立ちだけなら、確かに俺の知っている霞だ。
だけど、あの恍惚とした姿。あの狂気。あの病的な様子……まるで別人じゃないか。
「あなたを殺したのは、間違いなく、正真正銘、あなたの彼女──霞さんですよ」
「……!」
「それと、一つ勘違いしてるみたいだね、広志さん」
ルビーはさらりと言った。
「あの子が持ってたの、ナイフじゃなくて、ドライバーだよ」
「…………は?」
ドライバー? 聞き間違いか?
「待てよ。俺、ナイフで刺し殺されたんじゃないのか?」
「違うよ。人類のお役立ち道具──ドライバーで刺し殺されたの」
「…………」
「ほら、こうやって『ぶすっ』と刺して、それから『ぐちゅぐちゅ~』って回して。まるで、マドラーでコーヒーの砂糖を溶かしてるみたいだったね」
あ、あの腹の中をかき回されるような痛みは、そういうことだったのか?
くそ。なんであんなひどいことできんだよ?
俺の内臓をかき回しながらキスをしたり、吐き出した血まで全部飲んだりするなんて──
怖い。
マジで怖すぎる!
「ル、ルビー……」
「あら? あらあら? どうしたの、広志さん? そんな情けない顔して」
「頼む……頼むから、助けてくれ……」
「あはは。今になって、この使者様を頼る気になったんだね~。昨日まであんなに偉そうにしてたのは、誰だったかな? ん? ん?」
ルビーは得意げに胸を張り、ふんぞり返った。もっと誠意を見せろ、とでも言いたげだ。
俺は何も言わず、ベッドの上で土下座した。
尊厳? そんなもん、今はクソみたいなもんだ!
「すみませんでした、ルビー様……」
「美少女ってつけて」
「すみませんでした、美少女天使候補生ルビー。昨日はあんな無礼な態度を取るべきじゃありませんでした」
「うんうん。その肩書き、いいね。気に入った」
「罵ってすみませんでした。生意気なことを言ってすみませんでした。便器の汚れ扱いしてすみませんでした……」
「誰が便器の汚れだよ、こら────!」
ルビーは怒りで顔を真っ赤にした。
……あれ?
俺、謝ってるんだよな? なんか余計に怒らせてねえ?
「とにかく、今までのことは水に流そうぜ!」
「勝手に仲直りしたことにしないでくれる、広志さん?」
「まあまあ、そんな水くさいこと言うなって。どのみち、俺たちは一蓮托生だろ。俺が霞とうまく別れられなきゃ、お前だって正式な天使になれないんじゃないのか?」
「まあ、そうだけど……」
「よろしくな、ルビー」
俺はそう言って、何もない空間へ手を差し出した。
この頼れる使者と、これまでのことは水に流して、手を取り合いたかった。
「……しょうがないなあ。よろしくね、広志さん」
ルビーもため息をつき、白い手を差し出した──
すかっ。
握手はできず、互いの手がすり抜けた。ハイタッチに似た動きになった。
たとえ触れられなくても、互いの姿は見える。声だって聞こえる──
だったら、信じ合えない理由にはならない。
「……そうだ、ルビー」
「何?」
俺はベッドから下り、部屋のドアへ向かいながら、後ろに声をかけた。
「神様に言われて俺を助けに来たんだろ? でも、具体的に何ができるんだ?」
「ん?」
「ほら、お前、人間界のものには触れないじゃん。魔法とか呪術とか、そういうので助けてくれるのか?」
「やだなあ。魔法だの呪術だの、広志さん、アニメの見すぎだよ」
「なるほど。候補生だから、まだ術は使えないのか……」
歯を磨きながら、俺は勝手に納得した。
傍から見たら、エア友達と話している、ぼっちの高校生にしか見えないんだろうな。
幸い、親父はまだ会社から帰ってきていないし、美杏も部屋でぐっすり眠っている。
だから、この悲しい光景を目撃するやつはいなかった。
「候補生だけじゃないよ。正式な天使になっても、術なんて使えないから」
「ん? そうなのか?」
「天使をすごいものだと思いすぎ。『神の使い』っていっても、仕事は単純なんだよ。話を聞いて、助言するってこと!」
「話を聞いて、助言?」
「たとえば、どのおみくじを引かせるかを決めたり、夢を通して人間にメッセージを伝えたり、霊感のある人を通して助言を伝えたり……どの場合も、人間界に直接手を出すわけじゃないの。助けを求める人に、『助言』という形で手を貸すんだよ」
「……」
つまり、おみくじを選んでるのも天使で、夢のお告げをしてるのも天使。
じゃあ、神が降りてきたっていう霊媒師に取り憑いてるのも、実は神じゃなくて天使なのか?
「なんか、神様は一日中遊んでて、仕事してるのはお前ら天使ばっかりな気がするんだけど」
「人間の社会だってそうでしょ。現場の社員が外を走り回って、社長は空調の効いた部屋で会社の方針を決めるんだよ」
ルビーは肩をすくめた。そういう役割分担には、慣れきっているらしい。
「というわけで、話を戻すね、広志さん。この使者様が、どうやって彼女との円満な別れを手伝うのかって話だけど──」
ルビーは自分の胸をぽんと叩いた。
「陰でいろいろアドバイスしてあげるから、私に任せておけば大丈夫だよ!」
「…………」
ちっ。なんか役に立たなさそうだ。
/////////
天使候補生なら何かしてくれるのかと思ったら、後ろからろくでもない知恵を貸すだけかよ?
それって、結局口だけじゃねえか?
そう素直に感想を伝えたら、当然のようにルビーがむくれた。
「むきーっ! 何よ、その態度は! 広志さんって、ほんっっっっとにムカつくよね!」
わめき散らすあいつを無視し、俺は鞄を背負って玄関のドアを閉めた。
今日は水曜日。当然、学校がある。
家を出る前には、忘れずに美杏の朝飯と昼飯を用意して、部屋のドアの前に置いておいた。ちゃんと食べるよう、LINEも送ってある。
意外なことに、外に霞の姿はなかった。
俺の知る限り、よほどどうしようもない事情でもなければ、あいつは俺と一緒に登校するために待ち続ける。
高校でもそうだったし、大学でも変わらなかった。
ちなみに、あいつの成績なら、もっといい大学に行けたはずだ。それなのに、俺に合わせて市内の国立大学を選んだ。
まあ、あの家の財力があれば、学歴なんてなくても何とでもなるのかもしれない。
そんな「未来」のことを考えながら、俺は校門をくぐった。
教室のドアを開けると、隣の席は空いていた。霞はまだ来ていないらしい。
ほっとした。
殺された記憶が戻ったばかりで、どんな顔をして会えばいいのか、まだわからなかったからだ。
顔なじみの連中とひと通り挨拶を交わしてから、自分の席に戻る。頬杖をつき、教室を見回した。
死ぬ少し前に高校の同窓会に出たおかげで、クラスの連中の未来は多少知っている。
誰が家業を継ぐのか、誰が医学部に受かるのか、とか……
一番意外だったのは、高校ではいつも成績が底辺だった山田健太が、屋台でたこ焼きを売って、スポーツカーを買うほど稼いでいたことだ。そんなに儲かるもんなのかよ?
俺もいっそ学校を辞めて、たこ焼きでも売ろうかな。
とはいえ、強く印象に残っているいくつかの出来事を除けば、ほかの記憶はどれもぼんやりしている。
ルビーによると、「二周目」の俺が混乱しないよう、断片的な記憶だけを引き継がせたらしい。
天使候補生があてにならない以上、この記憶と経験を頼りに、霞と穏便に別れる方法を探すしかないか……
俺は頭を掻いた。胸の中が憂鬱でいっぱいになる。
昨日は可愛い彼女ができたと喜んでいたのに、今日は死ぬほど後悔している。
でも気が変わりやすいとか言うなよ!
お前らだったら、あんな怖い彼女と付き合っていけるのか?
際限なく尽くし、どこまでも自分を犠牲にする。そして、そのあとについてくる疑いと束縛。
あいつは俺をすべてだと思っていた。そして、俺の生活まで、少しずつ自分のものにしていった。
普通じゃない。
あんなの、まともな人間の生き方じゃない。
まるで寄生虫だ。
よく五年も耐えたもんだ……まあ、その間に三百回以上、別れようとは言ったんだけどな!
俺は行儀悪く貧乏ゆすりをしながら、あとで彼女が教室に来たら、どう接すればいいのか考えた。
殺意を抱かせちゃいけない。
かといって、好感度を上げるわけにもいかない。
あいつを刺激しない範囲で、俺への好意を少しずつ減らしていく。
残念ながら、今の俺にはそれくらいしか思いつかなかった。
……ただ。
昼休みになっても、霞は姿を見せなかった。
ちょっと妙だ。




