EP.08 おかえり、俺を殺した女
医師によると、これは「パニック障害」だという。
何かの刺激を受けたときに発作を起こす、神経症の一種らしい。
症状は、動悸、息苦しさ、頭痛、めまい、吐き気、震え、冷や汗、過度の緊張、筋肉のこわばり、現実感の喪失など……
突然、激しい症状に襲われるせいで、気が狂いそうになったり、このまま死んでしまうように感じたりする。
本人にとっては、恐ろしくてたまらない体験なのだという。
思い返せば、美杏は昔も、似たような発作を起こしていた。
六年前。学校でいじめられていたあいつは、いつも塞ぎ込み、学校にも行きたがらなくなっていた。
そんなある朝、家を出ようとしたところで、突然胸を押さえて倒れたのだ。息ができない、死んじゃう、と言いながら──
そう。今回とまったく同じだった。
あのときは、親父に「お前は先に学校へ行け。美杏は父さんに任せろ」と言われたから、詳しいことは知らない。だけど、それ以来、美杏は引きこもるようになった。
部屋から出ることも、学校へ行くこともなくなった。
あれが、最初の「パニック発作」だったのか……?
「ふぅ。よかったね、広志さん」
俺が昔のことを思い返していると、隣でルビーが汗を拭う仕草をした。
「サタンに取り憑かれたんじゃなくて。この使者様も、さすがにあれはどうしたらいいかわかんないもん」
「…………」
「これも神様のおかげだね。南無阿弥陀仏、アーメン、アーメン~」
お前、いったいどこの宗派だよ?
あのピンクツインテールに付き合う気にもなれず、俺は医師の説明を思い返した。
パニック障害には、強い不安が関わっているらしい。
長い間ストレスにさらされていたり、過去に心に傷を負った経験があったりする。
そうした人が特定の環境に置かれたり、何かの刺激を受けたりすると、脳が危険にさらされていると勘違いして、しきりに警報を鳴らすことがあるのだという。
すると体は臨戦態勢に入り、アドレナリンが大量に分泌される。
心臓が激しく脈打ち、呼吸が速くなり、このまま死んでしまうような感覚にまで襲われる。
それが、いわゆるパニック発作だ。
エレベーターのような閉鎖空間で発作を起こす人もいるらしいが、今回の美杏の場合は、「人が大勢いること」への恐怖が、発作の引き金になったのだろう。
妹の心の病気が、体にまで影響するほど深刻だったなんて。
親父が「絶対に美杏と顔を合わせるな」と言っていたのも、無理はない……
「……」
俺はタクシーの助手席に座り、窓の外を後ろへ流れていく街並みを眺めていた。
もう、疲れ果てて倒れそうだ。
右隣には、黙って運転する運転手。後部座席には、眠ったままの美杏。
そして、うるさくてたまらないルビーは美杏の上に浮かび、ときどき前へ顔を出しては、俺に話しかけてくる。
今日は、本当にいろんなことがありすぎた。
朝起きたら「幻覚さん」がいて、学校をサボって買い物に付き合い、高級レストランで飯を食い、霞とちょっと揉めて、家に帰ったら妹が床に倒れていて……
あまりに突然のことで、スマホも忘れてきてしまった。財布だけ掴んで、救急車に乗り込んだのだ。
「はぁ……」
ため息をつき、背もたれに深く体を沈めた。
医師の最後の説明を思い出すと、疲れがさらにどっと押し寄せてきた。
病院を出る前に、美杏の状態について話を聞いた。
パニック発作が起きたのは、救急外来に運ばれてからだ。つまり、家で倒れていた主な原因は、別にある。
だったら、美杏はどうして倒れたんだ?
医師は椅子に座り、検査結果を手に、真剣な顔で口を開いた。
「骨には異常がなく、目立った外傷もありません。ただ、血液検査で異常が見つかりました」
「異常……?」
「ええ。貧血に加えて、血糖値も明らかに正常値を下回っています。検査結果からすると、長時間何も食べていなかったことが関係しているのでしょう」
医師はずっと真顔のままで、俺は思わず緊張した。
「……つまり?」
「つまり、簡単に言うと──」
医師は検査結果を置き、爽やかな笑顔を向けてきた。
「妹さんは、お腹が空いて倒れたんです」
「………………」
そういえば、今朝家を出るときに、昼飯を用意し忘れていた。
美杏は部屋から出られない。
だから俺たちは、レンジで温める食品なんかをあらかじめ用意して、部屋の前に置いておく。あいつが食べたくなったとき、自分で中へ持っていけるように。
いつもなら忘れない。
なのに今日は、突然現れたどこぞの「幻覚」に調子を狂わされ、朝飯しか用意していなかった。
でも、少なくとも大事には至らなかった。そのことには、ほっとした。
俺は窓の外へ目を向けた。
いつの間にか、激しい雨が降り始めていた。
何か忘れているような気がする。
大事な、大事な……絶対に忘れちゃいけないことを。
何だったっけ?
胸の奥に妙な不安が湧き上がった。
だけど、疲れきった頭では、考える気力すら残っていなかった。
車内の時計を見ると、もう十一時を過ぎている。
親父は帰ってるだろうか。
スマホがないから、連絡もできない。
俺は雨音を聞きながら、長く感じる道のりをやり過ごした。
そうしているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
目を開けると、見慣れた我が家の前に着いていた。
「あんちゃん、傘、差しましょうか?」
運転手が親切に声をかけてくれた。
だけど、玄関まではほんの数歩だ。
俺は丁重に断り、ぐっすり眠っている妹を抱き上げて、庭を横切った。
ドアを開けても、玄関には誰もいない。親父はまだ残業中らしい。
妹をそっと下ろすと、俺もその場にへたり込んだ。
お姫様抱っこって、なんでこんなに疲れるんだよ。
──ピカッ!
雷鳴が轟き、稲妻が走った。
ドアを開けたままだったせいで、玄関が一瞬、明るく照らされる。
真っ白な閃光の中、長く伸びた黒い影が、俺を覆った。
誰かが、戸口に立っている。
俺は顔を上げた──
「!!」
──ピカッ!
雷が鳴り、雨が降りしきる。
戸口に立つ女の幽霊を見た俺は、全身が震え、危うく声すら出せなくなるところだった。
そんな情けない俺とは対照的に、女の幽霊は全身から殺気を放っていた。
背中を丸め、ずぶ濡れの長い髪を垂らして、顔の左半分を隠している。
唯一覗いている右目をわずかに吊り上げ、ブラックホールのように底の見えない眼差しで、俺と、その後ろにいる妹を交互に見た。
「あの女……誰?」
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「あの女……誰?」
突然現れた女の幽霊が、俺の後ろにいる美杏を指さして尋ねた。
危うくしょんべんまで漏らすところだった。
うおおおお、くそくそくそくそ!
なんだよ、こいつ!? なんでうちの玄関にいるんだよ!?
俺が恐怖でまともに考えられなくなっていると、隣のルビーまで取り乱した顔をしていた。それどころか、両手を合わせて、わけのわからない呪文を唱え始める。
「南無大日大聖不動明王、臨兵闘者皆陣列在前……恨みがあるなら、その相手のところへ行って。この使者様じゃなくて、広志さんのところへ……!」
「おい──! お前それでも『天使候補生』か──!」
俺を盾にしやがって、どんだけビビりなんだよ、こいつ!?
つーか、お前だって「霊体」じゃねえか。自分のお経で成仏しちまうのが怖くねえのかよ?
(※生成AIを使用して制作した挿絵です。)
「誰と話してるの?」
ルビーにツッコミを入れていると、前からまた、女の幽霊の声がした。
土砂降りの雨を背に、彼女の周りには混沌とした気配が渦巻いている。
死の気配が墨のようにじわじわと広がり、空気には血の匂いが漂っていた──
ん?
あれ。この顔、見覚えがあるような?
「待てよ。お前、霞……?」
俺が呼びかけると、彼女はようやく顔を上げた。
乱れた髪の下にあったのは、やっぱり霞の顔だった。
全身ずぶ濡れで、今日買ったばかりの服もすっかり水を吸っていた。
長いこと雨に打たれていたのか、すらりとした体がかすかに震えている。
「霞、どうしたんだよ? なんでここにいるんだ?」
「……」
「こんなにびしょ濡れになって……まさか、俺が帰ってくるまで、ずっと外にいたのか?」
「……」
「ちょっと待ってろ。今、タオルを──」
「あの女、誰?」
何の温度もない問いが、俺の声を遮った。
彼女の指の先には、鎮静剤を打たれ、すやすやと眠っている美杏がいる。
「……な、なんだよ。浮気現場でも押さえられたみたいで、怖えんだけど」
「……」
「落ち着けって、落ち着け。このおかっぱ頭は、俺の妹だ」
「…………」
霞は答えず、黙り込んだ。
うつむいた顔は髪に隠れ、表情が見えない。それがかえって、不気味さを際立たせていた。
俺はごくりと唾を飲み、またルビーの忠告を思い出した。
「広志くん、妹がいたんだ……知らなかった」
霞の声はひどく押し殺されていて、威圧感さえ滲んでいた。
「そりゃ、話したことなかったからな」
事情が複雑で、説明にも時間がかかる。だから、いずれ話そうと思っていたのだ。
「じゃあ、どうして妹と、こんな時間まで出かけてたの?」
「……は?」
「しかも、眠ってる妹をお姫様抱っこして、タクシーから降りてきて……どこに行ってたの?」
「いや、話すと長くなるんだよ。また今度、説明するから──」
「答えて!」
突然叫ばれ、俺は言葉を飲み込んだ。
どうしたんだよ、こいつ?
なんでこんなに取り乱してるんだ???
困惑する俺の前で、霞は胸元で両手を重ね、下唇を噛みしめながら震えていた。怒りと怯えが入り混じったような姿だった。
口の端に赤いものが滲んでいる。
唇を噛み切ってしまったのだと気づき、俺は慌てて止めに入った。
よく見ると、唇だけじゃない。左手の甲にも血が滲んでいた。右手の爪が食い込んでいる。
俺は急いで両手を引き離し、それ以上、自分を傷つけさせないようにした。
「何やってんだよ、お前。こんな土砂降りの中で、自分をこんなに傷つけて……いったい何やってんだよ?」
声には怒りが滲んでいた。
この子は、自分をまるで大事にしていない。
俺に叱られると、霞は悪いことをした子供みたいに、目に大粒の涙を浮かべた。
「だって……だって……広志くんから、ずっと連絡が来なくて、不安だったんだもん……」
「連絡……?」
「うん。メッセージ、送ったよ……見てくれなかったの?」
…………
そういえば、デートのあとに届いたメッセージに、「家に着いたら連絡してね。ずっと待ってるから」って書いてあったような?
「……そんなことで、自分をこんなにしちまったのか?」
「広志くんに何かあったんじゃないかって思ったら、心配で、心配で……私の前からいなくなっちゃうんじゃないかって……」
「…………」
「だから、ここに来て、ずっと、ずっと待ってたの……待ってるうちに、どんどん不安になって。でも、手の甲に爪を立てると、不安が消えるって気づいたの。だから、つい……怒った?」
俺は何度か瞬きをした。
怒りよりも、ただただ呆気に取られていた。
胸に身を寄せてくるこの子と、自分を傷つける行為が、どうしても結びつかない。
こんな夜に、一人で雨に打たれながら、自分の体まで傷つけて。ただ一人の男を待つためだけに?
そんなの……そんなことって……!
──狂ってる。
「怒らないでね、広志くん……全部、広志くんのためなんだよ」
霞は腕を伸ばし、俺をいっそう強く抱きしめた。
雨に濡れていても、その髪からは心地よい香りがした。
「雨の中で待つことも、広志くんのために痛い思いをすることも……私にできるのは、それくらいだから」
「…………」
「お願い。こんな私でも、嫌いにならないで……これからは、もっともっと、広志くんのために頑張るから」
「────!」
背筋を冷たいものが駆け上がった。
腕にも脚にも、鳥肌が立つ。
抱きしめられた感触は、確かに天国みたいに柔らかかった。
だけど、このときの俺には、ただ気味が悪かった。
蹴り離してしまいたい衝動さえ湧いた。
──あの子は狂ってるんです。正真正銘の化け物なんです。
霞は幸せそうな顔で、俺の胸に頬をすり寄せている。その左手からは、まだ血が流れていた。
──自分というものがないんです。あなたに尽くし続けることでしか、自分の存在を確かめられない。
霞が顔を上げ、潤んだ大きな瞳で俺を見つめた。まるで、キスをねだるように。
──いつか、あなたも耐えきれなくなって、一緒におかしくなる。
「えへへ。私、役に立てたかな、広志くん?」
霞は無邪気な笑顔を浮かべていた。
俺はルビーと目を合わせた。
あいつは気楽な様子で肩をすくめただけだった。まるで、自業自得だと嘲笑っているみたいに。
その瞬間、電流のように、記憶が頭の中へ一気に流れ込んできた!
無数の記憶の断片が、次々と閃く。
「──!」
思い出した。
ようやく思い出した。
俺は胸に身を寄せる彼女を見下ろした。
体の震えが止まらず、呼吸まで速くなっていく。
──一ノ瀬霞。
お前は、俺を一度殺した女だ。
~第二章 思い出したくなかった、恋の結末(完)~




